2009年10月29日木曜日

本読み敢行する。

先日、みんなで「血の婚礼」の第二稿の本読みをしました。
上演台本を書くのに参考にと思い企画したのです。
まだ本稽古は一ヶ月後ですが、そろそろ役者は各々準備をして貰わなければ成りませんから…。稽古INしてから準備しだしても間に合わないことなど沢山ありますからね。
そして初読みはおかしな緊張感があって楽しめます。
いや失礼。その人となりが一番分かるという意味で楽しいのです。
でも、駄目出しが出来ないのはもどかしいですし、我慢するのが大変です。


どうも最近の傾向として、役者が年間何本も芝居をするようになりました。
劇団性の求心力が弱くなったためなのか?作・演出が当たり前に成ってきたためなのか?分かりませんが、役者には、一本一本もっとじっくり芝居をして貰いたいと思うの次第です。
芝居なんかは、やりゃあ良いという類のモノでもないですからね。

2009年10月24日土曜日

いよいよ前売り開始!

次回作「血の婚礼」の前売りが昨日から開始しました。

もう後戻りが出来ない感じがして、忘れているものはないか?やり残したことはないか?と、ちょっと心配になるのです。
演劇は勿論これから作っていくのですが、僕にはここまでの準備の過程で、すでに作品が出来不出来が運命づけられている、そんな気がして成りません。

今回は新しい試みをしたいし、参加するメンバーの顔ぶれも実に多彩なので、わくわくする一方、どこか一抹の不安が残ります。
でも、ロルカの作品に触れて行く内にどんどん世界にのめり込んで行っている自分が分かります。
もしかしたら自分一人が盛り上がっているだけかも知れないと言う、疑心暗鬼が不安にさせているのかも知れませんが、どうやらこの裏腹の思いは毎度のことでした。

みんな揃ってさあ行こう、何て信じていません。
常に誰か個人が突出してリードしていくのが原理です、そしてその誰かは常に変わりうる物だと思っています。

ロルカは僕の中では思い込みも多々あり、一連の関心の流れの中に連なる作家であり、僕が手がける作品の根底には同じものが流れています。
「血の婚礼」は、ロルカの作品の中でも実に多面性があり、きわめて魅力的な作品だと思っています。
こねくり回さないで、シンプルにアプローチしていくに限ります。

前回、宮沢賢治をやりましたが、ロルカとは、とても似通った共通のものを感じています。二人の生きた時代や土着性とモダニズムの混在、そして性と死について扱っている点でしょうか、ただ風土がもたらす太陽や草花や土の色合いだけは、はっきりと違います。この違いが僕にとっては難しそうです。

これからどんな舞台が出来上がるか楽しみですが、今風の芝居で無いことだけははっきりしている気がします。
群衆劇としてロルカの世界の核だけは見失わずに、劇化していきたく思っています。

やっぱりロルカは良いですね。
 
 
老いも若きもご覧になって頂きたい、そんな思いです。


 

2009年10月13日火曜日

チラシ版下無事入稿?


加工しまくったチラシ裏に掲載する集合写真



 
やはり慣れないことは疲れる。
ここ一週間印刷物関係の創作に掛かりきりになってしまった。

実はここだけで言うのだが、人には物事への集中への入り方があるもの、僕の場合、チラシ作りがそれだ。写真を加工したり、色味を弄ったり、レイアウトの構図を試行錯誤したりするのが習わしなのだ。

この事は最近気づいたのだが、こうした作業を徹夜で日々チマチマやるうちに、これから作る芝居の雰囲気や芝居が持つ気分がはっきりしてくるのだ。

だから出来上がりのチラシを見て貰うと本番の舞台と似通ったものが感じるだろう。演出と宣伝美術を兼任しているのだから当たり前と言えば当然なのかも知れない。

チラシ、ポスター、チケットと入稿を済ませたので、これからはすっきりと本業の台本づくりに入れるかな?そうも行かないのがウンプテンプ。これがまた色々と人間間の問題が生じる。

昨日は劇場の下見にSTAFF何人かと両国まで行ってきた。
シアターΧは良く行く所だが、やるのは初めてなのだ。さあ、どう舞台を組もうかシアンクレールだ。
やはり思うのだが、僕は家でパソコンの前にいるより、劇場にいる方が好きだ。

さあ、今回の「血の婚礼」はどこまで行けるかな?


*画像は加工しまくってしまい、最早写真では無くなってしまったかも知れない、雨の中撮ってくれた今井さんごめんなさい。

それから、忙しい時に、嫌な顔一つしないで絵の描き直してもらい、川越さん有難う。
でもメールでのやりとりだったから本当は凄い顔をしていたかも…。







 

2009年10月8日木曜日

期待して観に行ったのだが…。

昨日、雨の中自転車をこいで吉祥寺シアターまで、芝居を観に行った。
忙しい中の息抜きと、出演する昔の教え子が招待してくれたので、せっせと自転車を走らせた。

それから、黒テント時代の後輩筋に当たる奴の作・演出だったので、作風がどう変わったか、どう歳を取ったのか観てみたかった。



芝居のタイトルは『バケレッタ!』再演モノだ。

とある青色吐息の劇団が、「学校の幽霊」と言う芝居の稽古のその最中、演出家が癌を煩い死んでしまい、その公演はやがて中止になると言う筋立てのバックステージ物だった。
子供向けのミュジカル劇団という設定らしいが、そりゃあんなくだらない子供を馬鹿にしたような芝居を作ってたら、劇団は立ちゆかなくなるのは当然のこと、これが最大の構造的矛盾。

芝居は水物である事は承知で言うが、正直、観終わった後に残るのもは無かった。
安っぽいセンチメンタルだけが芝居の核なのか?おセンチな場面は決まってBGMが流れるし…何がしたかったのか?

無性に腹立だたしさだけがこみ上げてきた。本当に内容が無いのである。その一言に尽きる。矛盾だらけの薄い話を、関西人でも呆れるような、くどく相当ひっつこいコテコテのギャグと、古いネタのダジャレで埋めているだけだった。休憩中帰るお客が結構居たのも頷ける。

無理に笑わせようと狙いすぎているのは、お客が一番分かっている。
勿論ノリの良いお客は数人必ず居るものだが、他の客は全く笑えていない。

あの台本じゃあ、役者はさぞ大変だったろうと思いながら観ていた。
迎合と堕落という言葉が僕の脳裏をちらつく。
一緒に芝居をしていた奴だけに尚更だ。

それから、若い男の子達を大勢アンサンブルのように起用しているのだが、彼らの存在は物語との整合性はなく、賑やかしでつまらないギャグをさせているが、若い連中にはもっとちゃんと芝居をさせてあげて欲しかった。

どたばたギャグが悪いわけではない。これは彼のスタイルでもあるが、以前あった奥底に流れる、一貫した通底する深い思いが全く見えない。
その不甲斐なさが腹立たしい。
人情喜劇を作りたいのだったら、奇をてらわずにしっかり書いて貰いたい。

僕はギャグは稽古場で役者が作っていくものと思っているし、受けないギャグは演出は認めない。作家がつまらないギャグを書いて水増ししてどうするんだ。
僕の好きな名のある役者も出演していたのだが、本がひどいと魅力もヘチマもあったモノじゃない。

作家は書けなくなる時、いや書くべき物を失う時はある、その時は書かなければいいだけのことだ。

もっと、ちゃんと芝居をしようよ。
50過ぎの名の通った作家なのだがあまりにも幼すぎる。

この芝居を見る限り、人それぞれのセンスの問題だけでは、演劇を語れない気がする。
僕には東京の演劇情勢の病巣が垣間見えて仕方ない。



終演後、教え子と合う。相変わらず泪眼で、元気ですか?元気ですか?と繰り返していた。一途なその様は相変わらず可愛かった。

俺は もう、そんなに元気じゃねえよ!

 

すべては、ここから始まり出す。

「赤のファウスト」出演者達
左からダンサーの吉沢 恵さん、宮崎敏行さん、木村準さん、西郷まどか、谷 修、成田明加ちやん、新井 純さん、桑原なおさん、坂元貞美さん、薬師寺尚子君、手塚謹弥、姫宮みちりちゃん、石井ひとみ嬢、蜂谷眞未、地曳宏之君、そして森勢ちひろ。



先日、雨の中、池の畔の洒落たイタリアンレストランを借り切って本チラシの裏面に載せる集合写真の撮影をした。




出演者16名スタッフ、5名がこじんまりしたレストランにひしめいた。
それも朝、かなり早くにボッとした頭で、お互いに一度っ気に顔を合わすのだから、変なモノだ。僕だけが全員と会って話をしているから少し余裕があるが、老いも若きも緊張するのだろうと思うと可笑しさがこみ上げてくる。留置場にたまたま一緒に入った罪人のような感じかな?


しかし、ウンプテンプ・カンパニーでは最早恒例になっているチラシの集合写真だ。
僕がチラシのレイアウトなどをしなければならないので、デザイナーさんのような格好良いチラシなど作れやしない。
芝居作りは難しいと思わなくなったが、広告デザインは奥が深く芝居作りで一番、経験がない分労力と頭を使う。
要するに、僕なりにチラシに力を注ぎ込めないとダメなのである。力のあるモノを作りたい。その力とは何だ?
一つ言えるのは、良くある出演者一人一人の顔写真を載せている例のチラシの裏だが、一体いつ撮った宣材写真だよと思わすものが混ざる。あれだけはケツの穴が痒くなるほど恥ずかしい。


かつて劇団に居た時は、みんな揃って撮るなど当たり前であったが、こうしたこともいつの間にか出来なくなってきた気がする。



この時期に出演者が全員が揃って写真を撮る事自体かなり大変だ。
制作をした経験の有る人なら分かるだろうが…、合理的に行かないのが芝居、大変さやめんどくささを背負いこむのが、また芝居だと思っている。
のっけからの朝まだきの撮影。皆、お互い名前も分からず困惑しながら、沸々と出演者達の確かな本能が動き始めてくるのを感じる。






昨今、芝居を観に行くと沢山の折り込みチラシを貰うが、チラシはセンス良く綺麗でおもしろそうに思わすチラシがあるが、その芝居を観に行くと…あれ別物?その手合いのモノが多すぎる。
ちょっとセンスがあり勉強すれば、デザイナーさんがillustratorを使って簡単に綺麗にチラシを作ってしまう、これもご時世なのだ。本当に便利になったものだが…。誰が何のために作ったのだろか、演出は舞台美術はと分業化が進む。






資本主義全盛(スターリン共産主義の時も)の中で成長した「生産効率」と言う名のもとで、大事なモノが次々その本質を失っていく。いや、正確には、いつの間にか生じた様々な「制度」を疑うことすら出来ず考えなく受け入れてしまっているように思える。
折り込み業者なるものまで小劇場に入り込んでしまったのが怖い。
そんなにみんな仕事がしたいのかよ?



以前情報誌の「ぴあ」が、チケットぴあなるものをコンピューターを導入して、商いをやり始め出した時があったが、その時はまだ物議を呼んだ。
とかく物事が変質する時は、常に最初は氷山の一角なのであるが、一度それを受け入れてしまうと、後はなし崩し的にテクノロジーという名の怪物が、効率化と経済性という美名の名のもとに、元々の本質が流れ去られてしまう。



でも人それぞれ、チマチマと面白可笑しく、楽に小金を貯め、ちょっと贅沢に少しオシャレに生きていきたいのであれば、それもまた良しなのだろうが…。僕は面白いとは思えないだけだ。
オヤジの愚痴のように思えるだろうが、楽しいことはもっと沢山あるぞ、そう言いたくなる。(やっぱりオヤジだ)






僕の芝居作りは否応なくそうしたした世の中の仕組みに抗ってしまう。
演劇がマス化出来ない仕組みの中に成立する表現行為なのだから、当然と言えば当然なのだと思っている。
バブル以降の若い世代の者たちに失われつつある不条理な物事とその本質を伝えられるかどうかが、僕の本当の戦いなのだろう。






「モノを知らない若い演劇人が多すぎる、男優に多い」俳優を仕事にしたければ、もっと言葉を覚えて貰いたい。
要するに沢山本を読めと言うことだ。
それから間違っているのは、映像と舞台は基本が違いますよ。
同じなのはどちらもかなり本気でなければ続けられないと言う事なのだ。



アイドルやイケメン俳優を使って客集めしたい気持ちは分かるが、そんなに舞台が簡単に踏めるのが安直だ。演劇が集客命に走りすぎて、自分で自分の首を絞めている気がする。



最近、演劇の経済性のたがが外れたのか、不況だというのに入場料が暴騰しだした。どう考えても今が踏ん張りどころだと思うんだけどな…。
自分の立っている足元の砂をせっせと掘っている感じだ、とうの本人は映像に出たい一心なのか?に、しても自分の公式プロフィールにPV出演まで書くなよ。
ありゃ小遣いが稼ぎに、こっそりするモノだろう。
言い出したらきりがないから止めよう。



若い頃、コンピューターグラフィックスなどと言う言葉すら無かった時代がある。



その頃、平野甲賀さんのデザイン事務所に遊びに良く伺った。(本当は用事を言付かっての使いっ走りだが)平野さんは淡々とブツブツ呟きながら、細かい手作業で貼ったり切ったりしていた、大変な職人芸のようだったが実に味わい深い仕事をしていた。その後に美味しい珈琲をごちそうになり、20才そこそこの若造に四方山話をしてくれたのを思い出す。






とにかく、ここから始まり出すのだ。ウンプテンプ・カンパニーの芝居作りは…。