2009年11月30日月曜日

今日は音楽のレッスンでいた。





歌を歌う者達(一生懸命)


神田晋一郎による歌と即興とボディーリズムと動きのエチュードを行った。
メーセージ性の強いエチュードだった、「歌を1音1音しっかり歌うのは大変なんだぞ」と繰り返し言っていたので、多分これがメッセージだたのだろう。
それにしてもトークが上手くなったように思える。神田氏の、しみじみと語る1音の意味、苦悩の人生が滲み出ていた。

役者たちは彼の滲み出る切ない思いに誘われ、集中力が増してくるから不思議。

いよいよ明日から、血の婚礼のテーブル稽古だ。
作戦はなしで行こう、喋りすぎないように気を付けよう。妄想を語るのは止めよう。
粛々と掘り下げていけると良いが…どうなる事やら。

今回は、伊藤多恵さんや神田晋一郎など才能豊かな人材ががんばってくれているのだから、僕は、ただ、にこにこしながらみんなの読みを聞いていよう。そんな人に早くなりたい。



2009年11月29日日曜日

本日から「血の婚礼の」稽古IN






出演者たちが踊る?ピアニストも踊る?


今日は「血の婚礼」の振り付けの伊藤多恵さんによるワークショップを行った。
僕はただ観ているだけだったが、多恵さんの具体的で的確な示唆を聞いていて、なるほどと思えたし、同じ事柄を伝えるにも「動く」という観点からだと的を得て分かりやすく伝わるのだと思えた。役者は一度こういうワークショップを経験すると良いと思えた。
演じる時にとかく、心理とか感情で埋めてしまう事があるが、それがどういう事で、何がいけないのか、身体そのもので分かるからだ。

やはり表現とは、肩から力が抜けて、そこに屹立しているニュートラルな状態から生み出されるものだと、改めて思う。



一番下の先頭に立っているのが、今回の作曲・ピアノ演奏の神田さんだ。
明日はその神田さんが、音と声のワークショップを行う番だ。

僕はワークショップと言う言葉はあまり好きではないが、個々には目に見えない成果は確実に感じ取れたと思えるし、今日の経験はこれから築き上げていく「血の婚礼」の芝居全体に影響していくだろう。






2009年11月26日木曜日

演劇的素数

数学の最大級の問題として有名な、19世紀に提案したリーマン予想というものがある。
これは数の並びに、素数が不連続に無限に連なっていると、古代ギリシャの数学者ユークリッドが提唱して、その後、数々の天才数学者が、素数の並びの法則を解き明かそうとして今も尚解明出来ていないのである。リーマン予想とは、ゼーター関数なるものに素数を置き換えるとゼロ地点に一線上に並ぶと予想した問題定義なのであるが。

何故、天才数学者がこの難問に挑むかというと、無限に存在する素数の法則を知ることが万物の摂理を知る事に繋がると夢想してしまうらしい。

僕にはそんな根気も学識もないのだが、彼らの求めてしまう欲求が分からないでもない。
ご存じ素数とは、1と自分自身でしか割れない数であり、言い換えればそれ以上でもなくそれ以下でもない数字なのである。
コンビニのセブンイレブンには隠された暗号が秘めているのかも知れない。

現代の最新のスーパーコンピューターを使ってどのくらいの素数が打ち出されたかというと、確か165億桁あたりまで発見されているというが、想像も出来ない数字であることだけは確かである。しかし無限大からすると屁のような数なのでもある。そう思うと、がっくりと肩の力が抜けてしまう。


話を演劇に戻そう。

僕は演劇作りも数学に似た部分を良く感じる。
演劇も、それ以上でも以下でもないポイントを発見して、その点を繋げていく作業だと思えることがある。そして稽古場でそれを実感することも多々あり、その点を不連続に発見するのだが、そこには何かの法則が有るような気がして成らないが、どうやらそれは演劇の神様だけが知る領域なのかも知れない。

それ以上でも以下でもないポイントをどのくらい発見出来るか楽しみなのであるが、作るのは人間、欲もあれば邪念も生じ、保身にもまみれる。この人間の様をみるのも楽しいと思えなければ、演劇は享楽から研究に変わり、稽古場は、研究室か道場のようなものに成ってしまう。
ああ、そんなのは嫌だ。
救いは、演劇には本番が用意されていて、分かろうが分かるまいが、やらなければ成らないのである。
出来るまで生涯をかけて作り続け無くても、止ん事無きかな、終演がすぐに来るのである。

ただ、それ以上でも以下でもない、「瞬間」を皆で味わいたいものだ。
そう僕の現実感は至って気迫であり、無限と瞬間とは背中合わせの関係に感じられてしまう。



次回作「血の婚礼」の稽古ももうすぐ始まる。

僕も役者の経験があるから分かるのだが、稽古INする前の役者の精神状態は不安定になるもので、演出を始めてから、役者でなくて良かったと思えてしまう今は稽古IN直前なのである。
だから、僕は台本も取りあえず上げて、今は暢気なことを言ってられる唯一の時なのだ。
逆に早く人間である出演者たちと触れ合いたいと切望している。
 
 

2009年11月3日火曜日

寒くなった。

「実に寒い」と思ったら早、11月に入っていた。
すこぶる体調悪し、氷雨が顔に当たり、頭がキンキンしだした。

次回作の顔合わせをした後、少し芝居から頭を放してみようと思ったら、体調まで悪くなってしまった。
芝居の事を考えてないとダメって事なのか?ナンタルチヤ!

と言うことで、また考え出したら元気になり出してきた。

「血の婚礼」という芝居の役名は一人だけ名前があるが、後は村の女とか娘1とか青年2とか、母親とか花嫁とか敢えて記号化されているので、僕としては人物に入りにくい。
若い頃はチェーホフとかの芝居で、舞台でナターシャとか呼んでいると、虫ずが走る感じがした、俗に言う赤毛モノと言う奴だが、それに比べれば幾分ましかもしれない。

ロルカが敢えて固有名詞を付けない「血の婚礼」の真意は、どこにあるのだろうと、考えてはまたその考えを疑りだす。
唯一の役名が「レオナルド」と呼ぶ既婚の男だが、この名前に纏わる事柄が物語を貫くキーワードに成っていくのは、少し考えれば誰にでも分かる答えだろう。
それから、どこの田舎でも起こりうる偏在的な物語として読むというのも、在り来たりの解釈だろう。

最初に感じる違和感を突き詰めて行くと、鉱脈を掘り起こせるときがあるものだ。もう少し考えよう。
でも、どうも理屈ではないような気がして成らない。

時間を少し置いて、改めて読み直すと新たな疑問が立ち現れ、芝居の世界に誘いだしてくれる。頭でいくら考えても、人間の不可解さや、関係の不条理さは、現実に起こりうる事柄を超えられやしないのだ。
何故人は争うのか?何故人は血を流し続けるのか?憎しみは何をもたらすのか?