2011年7月31日日曜日

人知れぬ死のガゼーラ「血の婚礼」より

「血の婚礼」より ロルカ作詞 人知れぬ死のガゼーラ 作曲 神田晋一郎

振り付け 伊藤多恵 構成・演出 長谷トオル 美術 蟹江杏

演奏Piano 神田晋一郎 Contrabass 河崎純 Violin 外村京子

歌=新井 純  ダンス=吉沢 恵




前作の「血の婚礼」では、大地に注ぐ陽光の日射しと陰に拘り、ふんだんにロルカの詩に曲付け構成しました。

今回の「ベルナルダ・アルバの家」では、閉ざされた屋敷の中で繰り広げられる世界なので、全くアプローチの方法を変えました。

演出的な見せ方を極力廃していく事にチャレンジしています。

2011年7月2日土曜日

劇団性の崩壊と、ベルリンの壁の崩壊、そしてバブル景気の崩壊 (雑文)

 
89年にベルリンの壁が崩壊し、90年代を迎えソ連が崩壊していく。
若いインテリ演劇人であれば当然知っている歴史である。

その頃、日本ではバブル景気真っ直中だったが、ソ連崩壊直後バブルもはじけ飛んだ。
今、何故こんな事を書いているかというと、今の日本の演劇(社会)の変質が、この時の東西冷戦の終結と、バブル景気の崩壊とイデオロギー闘争の消滅によって、現実社会そして演劇人に強く影響して行ったのだと思えるからだ。
その頃、僕は32才ぐらいだったと思う、演劇などやっていると、将来の不安はつのるばかりで、息をするのも苦しくなってくる。(それは今も変わりはしないだろう)幸か不幸か僕のような演劇人にはバブルの恩恵などほとんど無かった。

そして幸いにも、僕が演劇をする事に反対し続けてくれた、父が亡くなり僅かばかりかの遺産が舞い込んだ。「これで三年は芝居に集中して出来るぞ」そう思うと途端に息が清々しだした。お終いに息子思いの父のありがたみを知った。

当時、一緒に芝居をしてた同じ年の奴が芝居を止め不動産業に付いた。
その後も奴は良く、かつての劇団の芝居を観に来てくれて、僕を終演後小じゃれたバーに飲みに連れて行ってくれた。

歌が下手なくせに、いつ覚えたか奴はマイクを手にして、聞いてられない流行の曲をカラオケで歌う。
そして真顔で財布を取り出し「俺のような者でも財布が立つようになるのがバブルなんだ」そう言ってカウンターに分厚い財布を立てバブルのなんぞやを説明してくれた。
僕はただ黙って眺めていた、そんな戦友であった友人を憐れにすら感じた。

「お前はがんばれよ」そう言って、別れ際にタクシー代にと言って、奴は申し訳なさそうに1万円を手渡してくれた。僕は当たり前のように受け取り、意気揚々と明日の本番に備えて電車で帰宅したのを覚えている。

ベルリンの壁の崩壊光景を映し出すニュースに胸を躍らせ、変わるだろうこれからの事の期待感を強く抱き、ソ連連邦は消え失せた。そしてバブル景気は急激にはじけ飛ぶ。これが90年代に誰もが影響を与え、何らかの記憶が蘇ってしまう、出来事なのだ。

プロデュース形式の芝居が頻繁に企画されるのがこの辺りからで、劇団を率いていた演出家が一本釣りされていく。そして残された劇団は役者のプールのようになり、プロディースされた演出家の芝居に出して貰うのだが、メイン所は客を呼べるバリューのある役者が担う。劇団自体の公演は日増しに減り出し、劇団員は所属している意味を考えは初め辞めていく。これは今でも変わらない構図だろう。

そして演出家は公共ホールの芸術監督へ就任したり、行政や大学の席へとパラサイトを始める。俳優の一部はマスコミへと仕事の場を移していく。

当時、何人かの他劇団の役者に相談をされた経験があるが、こればっかりは何とも上手く答えてあげられなかった。「悩んでるんだったら辞めちまえ」と言い放つしかなかったのを覚えている。

それまでは商業的な演劇と劇団固有の演劇とははっきり一線を引いてたのだが、90年台に入り次第に、その一線が溶解していくように崩れ去っていく。
今は皆が当たり前のように受け入れているだろうが、当時はいい訳を言いながら自ら一線を越えていった。

名古屋は大須にある「七ツ寺共同スタジオ」のいつも穏やかな二村氏は、強い口調で「あいつら、きちんと総括をしろ、みんなを巻き込むだけ巻き込んで」と行き場のない怒りにも似た言葉を放っていた。

彼らの一種の贖罪なのだろうか?文化庁の助成金制度と事は魑魅魍魎となり、助成を受ける既存の劇団は半ば固定され、団員たちはチケットを売らなくなってくる。
この時期、95年に平田オリザの「東京ノート」が岸田戯曲賞を受賞し、青年団は精力的に活動をしだしていく。

時代の変遷と日本の劇団性の崩壊をかいつまんで改めて思い出してみた。
そして2000年に入った辺りから、演劇ユニットの乱立し出し、そして今の理念なき小劇場ブームが始まるのである。その弊害については今は敢えて語らない事にしよう。


大事な事を言うならば、今また新たな大きな崩壊が起こっていると言うことである。

 
 
   
 

2011年7月1日金曜日

演劇を開くー(雑文)

 

僕は芝居を作るときその集団性に拘る。そして僕の拘る集団性というのは一方向のベクトルを持つ一枚岩の集団ではなく、社会の雛形としての集団である。各々が多様な在り方を保管しうるそんな集団なのだ。

大仰な言い方をすれば、作品を創るだけであれば三日もあれば事足りる。ところがどっこい僕には最低でも50日間余りは稽古時間が必要なのである。それは作品を創るための稽古と言うより、集団作りのための稽古と思っている。

俳優が、自分と作品との抜き差しならない関係に辿り着くためには、エイヤーとかけ声勇ましい意気込みだけではとうてい出会えない、己の奥底に潜む内なるモノと作品の何かとが触れ合って初めて「自分の芝居」と実感できるのだと思っている。

演出もその一人でありたい。そう思い通りに、急かして見つけられる類のものではなく、皆が集う場が次第に熟成して、一人一人がそれぞれ辿り付いて行くのだと思っている。そして、その為に演劇自体に内在する方法が有効なのであり。作品は結果生まれていくのだと思う。そこには経験の差も巧みさも関係なく、まずは初心に帰る技術のみが必要なのだ。

そうした主体的な個が揃った時、集団は創造集団となりダイナミズムを生み出し、演劇は演劇の枠を超え、オリジナルな総合芸術となっていくと考える。僕はそれを「劇的なる力」と呼ぶ。常に集団とはバラバラな個人の集まりから始まり出すのであり、そうして生まれた作品は社会の雛形である観客席に対するに値したものになる。そして集団は解体しまた集合し、これを繰り返していくのであろう。

欲を言えば劇場の壁をも突き抜け、まだ見ぬ観客へと向かっていきたい。いつの間にか「効率」と言うものが、背に腹は代えられないのか舞台芸術の世界にも専権して表現行為の不可思議な「制度化」が進んでいる事に危機感すら感じざるを得ない。

例え独りになっても僕は抗い続けるだろう。
類が友を呼ぶまで。