2011年5月7日土曜日

演劇のための演劇からの脱却

箱(劇場)の形が、表現の幅を規定していく。かつて労演運動と高度成長期の箱物行政が重なり、各地にプロセニアムアーチを持つ、雛形の1000人規模の市民会館が乱立して行った。僕の父も大手ゼネコンの現場監督していたので、当時の劇場マニュアルと図面にブツブツ言いながら格闘している光景を思い出す。



新劇団の発声方法やミザンセーヌの取り方は、こうしたプロセニアムアーチ(額縁舞台)に対応しながら定着していくわけだが、60年代から始まる小劇場運動とは、制度化された空間から表現を解き放ち、今を突きつける「場」として若い演劇人たちが、知らず知らず築き上げられた制度そのものに挑んでいった演劇運動である。そして様々な演劇的実験が繰り返し試みられた。


俗に言うアングラ演劇(アンダーグランド)とは「自由劇場」が六本木のビルの地下に作った小劇場から日本ではそう呼ばれだした。当初の状況劇場はトラックの荷台を舞台にし、移動しながら上演をしている。天井桟敷は渋谷に粟津潔の設計の小劇場を構えた。一方、早稲田小劇場は早稲田にある喫茶店「モンシェリ」2階を劇場として活動を始める。現在は早稲田大学内の「どらま館」である。

余談だが、僕は渋谷の天井桟敷に足を運ぶことが好きだった。寺山の芝居を観るではなく、劇場近辺をうろつくと、そこには一風変わった若い者達が何となく屯していたからだ。


また、より自由な空間を求め、移動する演劇空間としてテント芝居が生まれて行ったのもこの時期である。広場に屹立する異様な風景を、若者たちは赤テントとか黒テントとか呼んでいた。

また余談だが、キャラバン隊というのがあって、若い者達がテントと共に移動していた。次の公演地に到着すると、見た顔のモノが屯している。彼らは芝居を観るわけでもなく、寝転んでたり、歌を歌っていた。そしていつの間にかテントの回りには200人ぐらいのヒッピー達が群れていた。


僕自身、後で気が付いた事なのだが、第一世代と呼ばれる演劇人達は、多かれ少なかれ新劇教育を受けている者達だったのだ。演出のダメ出しも「とにかく何かやれ」と言ったかと思うと「戯曲から逸脱するな」とか言われたりで、困惑した記憶がある。


あまり知られてないが、唐十郎は稽古場で、エチュードとしてチェイホフをテキストにしてストレートに稽古をしていたらしい。あの甲高い早口で「演劇の基本が出来なければ何やってもだめなんだ」と行っていたそうだ。これは後日、半分笑い話のように元状況劇場の坂本貞美さんから聞いたことである。



現在、小劇場が乱立し、一つの小劇場演劇と言うカテゴリーを作りだしている。僕の知るかつての小劇場とは依拠するものは異なるが、その系譜を大局的に辿れば、今の若い演劇人が見失いがちになるモノに気づくのではないか。

そして、かつての市民会館と新劇との関係がそうであったように、小劇場の空間も表現を規定していき、また制度化されているように僕には思える。それが劇作の世界感や、俳優の表現に顕著に現れている気がして成らない。



大震災と原発事故は、これまで暗黙の了解として成り立っていた物事が露見し、解体されていく現状を嫌でもまざまざと知る事になるだろう。
そして経済の成長神話も終演を迎え、新たな生きる価値を見いださなくてはならないのだろう。


演劇表現は常にその時々の社会情勢と不可分なのである。この未曾有の事態を経験し知ってしまった僕たちは、当然の事だが自分と演劇との関係を考える事になるだろう。しかしこの状況で思考することが表現にとって決してネガティブな事ではないのだから、なんとも表現者とは業の深いモノ達だ。