2011年3月15日火曜日

モアのテーマ

前にも書いたが、僕の仙台での生活には沢山の思い出が残っている。

僕は近所の悪ガキのひとりだった。毎日学校が終わると意味なく集まって遊んだ。良くこれでもかという風に遊びが思いついたものだ。

悪ガキ仲間のひとりに父親のいない子(T君)がいて、母親の実家で暮らしていたのだが、母親が再婚して子供を置いて家を離れた。
どうやら、母親は多賀城という自転車で30分ぐらいの所に住んでいるとT君いつは言っていた。
「もうすこししたら母さんが迎えに来てくれるから、僕もそこで一緒に暮らすようになる」と静かに言っていた。

僕はT君の母親が住む多賀城に、二人で自転車をこいで行ったことがある。
でも、母親がどこに住んでいるか結局分からず引き返した。いつの間にか寡黙になったそいつは悲しいのだと思った。

その時だったと思う。
街道沿いの電柱にヤコペッティ監督の「世界残酷物語」の映画のポスターが張ってあり、想像を膨らました僕ははしゃいで色々なエグイ話をT君にした記憶がある。

一年後くらいか、T君は引き取られて多賀城に母親と共に暮らすようになった。将棋が強くて、僕より足が速かった。

その後、モアのテーマを聞く度に、あの子供時代の一コマが頭を過ぎる。

晩年、「世界残酷物語」を観るたら、残酷なのは人間だと言うメーセージ性の強い映画だった。綺麗な旋律の「モアのテーマ」が無常観を感じさせる。

僕の多賀城の記憶である。

今だから、曖昧かも知れぬが記憶には留めておこう。


 

2011年3月14日月曜日

あそこには海の劇場があった。

 
どのくらい前になるのだろう。

宮城県の気仙沼の唐桑町という所で、臨海劇場と銘打った町をあげてのイベントに参加した時の事を思い出してしまう。


僕は地元の有志たちに呼ばれたて、勇んで仲間たちと即興劇づくりのワークショップを作りに唐桑に行った。

臨海劇場とは、唐桑町の大きめの入り江に、竹を組んだ骨組みに船乗りたちからかき集めた大漁旗で覆った、海沿いに立ち上げた仮設劇場の事だ。

演目は、地元の人たちが演じる取材劇、そしてスターリンの遠藤ミチオのパンクロック、岡林信康が大人っぽく歌い、北方舞踏派系のアルタイ派と名乗る舞踏家たちが筏に乗って踊りながら海の向こうから現れる。

今でもはっきりと脳裏を横切る。
髪を逆立てている、遠藤ミチオの仙台からやって来た追っかけたちが、漁村ののどかな風情とは場違いな風に堰堤をうろうろしている。
暗黒舞踏の異形な風体の若者たちは、何故か風景に溶け込んでいたのが妙に気になった。


毎日、集会所に寸劇作りのために集まるのだが、参加している地元の奴らは時間通りにはまず来ない。ましてや途中で帰ってしまったりで、僕は業を煮やして実行委員会の人に「これじゃあ俺たちが何のために来たのか分からない」そう言って東京に引き上げようとした。

その翌朝の早朝のことだ。
宿舎で寝ていた僕の寝床の回りに実行委員会の何人かのメンバーが土下座して居るじゃないか、そして委員長が「頼む、分かってくれ!俺たちには俺たちの生活のリズムがあるんだ」うる覚えだが、そのような事を言って深々と頭を下げられた。
何せ寝込みを襲われ、半ば強引に引き留められ、再び芝居作りのワークショップは続けられた。


そして彼らは大漁旗で覆われた海の劇場で、巧みに観衆の笑いを取りながら演じる事を楽しんでいた。
その後、唐桑臨海劇場は数年続けて開かれた。




唐桑という場所は、気仙沼の北側に突き出たリアス式の半島で、マグロ遠洋漁業の漁師たちが大勢住むマグロ漁の基地のような所で、沢山の入り江ごとにある集落で出来た町だ。
猟師たちは遠洋へマグロを追って家には半年は帰ってこないので、男たちは普段は極めて少ない。


半島の小高い山頂の少し開けた所に小さな祠があり、そこからは気仙沼湾が一望できる場所がある。
そこは旦那が遠洋に漁に出かけるのを、女たちが見送る所なのだ。
そして男が乗る漁船は湾内を一周して、どこか遠くの海へと船出して行くそうだ。
船が見えなくなるまで見送ると、残された女たちは祠に無事を祈るのが習わしだと聞いた。


彼らの土地に根ざそうとする生き方、そこから生まれる矛盾など、未だに僕にはとうてい理解できない。彼らも僕のように演劇なんかに拘る生き方はまず理解できまい。
ただ、一夜の祭りのために必要としあった事だけは確かであり、そこで繰り広げられた芝居は、確かに観客と一つになり熱気を放っていた。
そして僕に演劇は一つだけではない事を教えてくれた。


いつの間にか僕も少しは大人になった、「もう帰る」など駄々は捏ねないだろう。
そう、いつの間にか時は過ぎる。
どんなに辛い時も、楽しい時すら移りすぎて行くようだ。



山伝いに火送りで、入り江に停泊している漁船に合図を送ると、波間に揺れる漁船は、打ち合わせ通り本ベル代わりに一斉に汽笛を鳴らす。

照明が灯る。入り江の水面は水鏡となり、海に面した土塀をゆらゆらと、幻想的に浮かび上がらせている。

鳴り物を鳴らし子供たちを先頭に、少し照れた地元の出演者たちが行進しながら、色鮮やかな大漁旗の劇場に入場して行く。

座布団持参の観客の甲高いしわがれ声がわき上がる。

さあ、始まりだ!

2011年3月12日土曜日

大津波。

僕が育ったのが仙台なので、海の方には良く遊びに行った。
よく知った今回の被災地の惨状には言葉を失う。
そして一緒に遊んだ奴らは気丈夫でいるだろうか?


それから、三陸沿岸は入り組んだ入り江ごとに集落があり、今だ報道されていない惨状を想像するに余りある。

頑張ってくれ。

2011年3月9日水曜日

「裁き手は世界を焼き尽くさん」の動画をUPします。

最早、他劇団の舞台すら演出的に観てしまう癖はしょうがないと思っている。芝居の楽しみ方が、どんどん薄れていくのは僕だけなのだろうか?

客席に座ると上を見て、まず照明スポットの数と吊り方をチェックしている自分がいる。一番呆れるのは面白い場面では、回りの観客の表情を観察している。こりゃあ最悪の観客だろう。

作り手が力を入れ、芝居の見せ場としている箇所は、概ね灯体の光量が劇中、最大だったりする。

自分が演出する時もその傾向になる。明かりを作る段階で全てのフェーダーがフルゲージになって行く。

今回、UPしている赤のファウストの「裁き手は世界を焼き尽くさん」の場面が、その典型だろう。
無謀を承知での、4部合唱に役者がチャレンジして稽古姿を知っている者としては、つい力が入ってしまう。


この場面は、マルガレーテが逃れられない罪の呵責から、黙示録的世界に押しつぶされ自己崩壊をする中で、幻影たちに唱われている曲だ。

ウンプテンプ・カンパニーの芝居では、「罪」と言う意識をモチーフにする事が多々あるが、ゲーテのファウストではこれでもかと言うほど、くっきりと描かれている。
もしかしたら、逃れられない罪の意識が僕の中に巣くっていて、普段は顕在化していないだけかも知れない。


作曲・演奏は神田晋一郎、訳は柴田翔氏 赤のファーストより「裁き手は世界を焼き尽くさん」



唱うは「赤のファウスト」、オールキャスト、実は袖でも一生懸命唱っています。



2011年3月3日木曜日

「新たなる門手への祝いの歌」

「赤のファウスト」の企画段階で合唱を取り入れようと思い立ったのは良いのですが、合唱曲を作れる作曲家のあてがなく、思案に暮れてました。

その時に、勇気を振り絞って、音楽家の三宅榛名さんに相談に乗ってもいました。榛名さんは丁寧に僕の幾つかの相談に答えてくれたのを思い出します。
まったく予算も、具体的な演出プランもはっきりとしてない段階だったので、榛名さんに突っ込まれたらどうしようと内心どきどきしながら、お会いしたのを今でも覚えています。

その場ですぐに電話して貰い、次の日に合たのが神田晋一郎氏でした。彼は少し緊張気味でしたが、その後立て続けに5本の演目全ての音楽を担当して、毎回、生演奏でピアノを弾いてもらっています。

そして毎回、僕の無謀なプランを面白がって作品作りに挑んでくれています。
苦楽を共にしながら、世界を膨らませてくれる彼の存在は、最早ウンプテンプ・カンパニーには無くてはならない才能です。

と言うわけで、今回は赤のファーストから「新たなる門手への祝いの歌」をUPします。
この曲を聴いて、新たな人間との出会いの経緯がふと脳裏に過ぎった次第です。

ファストが悪魔メフィストフェレスにささやかれ、自ら送ってきた人生を憎悪し悶々とし、悪魔は霊達を呼び、ファウストを誘わせるように歌い出される曲です。そしてファウストは悪魔との契約を交わします。

人が生きている間には知る事が敵わない、陶酔と快楽をお望みのまま与えるが、その代わり「とどまれ。お前は美しい」口走ったら魂を奪うことをファウストは誓うのでした。



唱うは左から/薬師寺尚子/手塚謹弥/土田有希/成田明加/西郷まどか

作曲/神田晋一郎 作詞/ゲーテ 翻訳/柴田翔 演出/長谷トオル