2008年11月30日日曜日

僕が若いときは、こんなに芝居が好きではなかった気がする。


    
    稽古は楽し・・キチ役の成田明加


「三日月のセレナーデ」の立ち稽古に入って3日目になる。そして今日は全日稽古。

画像の役者は劇団レッド・フェースの成田明加。
 

前回の「新譚サロメ」に引き続いての出演だ。この二回目が怖い。芝居は概ね二という数が曲者らしい、どうも新鮮さが薄れるのだろうか、求めてしまう物が増すのかは分からないが、僕はその先の、先が見たくなってしまう性分なのだから、そうした僕の我が儘を免じてちょ。
 

彼女の演じるキチという役はこの芝居の世界の要であり、簡単に出来てはまずい役なのだ。要するに、俗に言う良い役と言う奴だ。


キチは、河原に住み孤独なのだが屈託が無く、いじましい飴売り女と言った役所。

とうてい今の時勢からは想像も出来ない生き方をしている女なのだ。

悩み苦しまなければ演じられない、いや演じてはいけない役なのかもしれないな。

 
「役者は文化を演じるものだ」と誰かが言っていたが、まさにその通りだとこの芝居を稽古しながらつくづく思う。自分達が知らない世界にどれだけにじり寄って行けるか、先は思いやられるが、出来ることしかできないのも事実である。
一歩一歩積み重ねて作る芝居は、僕は楽しい。そして一歩一歩進んでいく若い役者とする稽古はなお楽しい。

 
しかし待てよ。この明加という女優、一挙にワープしてしまうかも知れない、そんな役者かも知れないぞ…。

 

 

2008年11月24日月曜日

予定通りには進まないのが稽古



          和気藹々風の稽古風
 
本日はテーブル稽古の最後の日、ポカポカ陽気のせいか皆の緊張も取れ、
台本の掘り起こし作業も少しは進んだが、でも予定の半分も行っていない。
まあいいか。上手く立てなかったら、また読みに戻ればいいだけのこと。
 
本当に荒れ地を開墾するのに似ている、後は種をまいて水をやって、刈り取りと言った段取りで芝居は出来上がる。ところがそうはいかないのが芝居作り。
虫も沸けば、雀もチュンチュンなのだ。
 
新しい参加者はどこか戸惑いを見せている。それも追々こなれてくるだろう。
駄目出しの言語には慣れが必要なのだ。自分では居たってオーソドックスに進めている気で入るのだが、昨今色々な作り方があるようだ。ワークショップを取り入れてたりね。
 
ここで一つ疑問が、よくプレ稽古でワークショップぽい事をするのだが、本稽古と何が違うのだろう?上手く行かなかった話は良く聞くのだが…。
今回は役者達だけでプレ稽古をしてくれたが、これが正解かも知れないと思う。
 
台本を起こす作業はとても大事なのだが、今回はあまりスタッフが参加していないのが心配で成らない。大丈夫かい台本そんなに読めるのかいな。
まあいいか。どうせ慌てるのは本人達だし。
 
芝居を甘く見ているとしっぺ返しが来るのは、演劇の不文律であるからにして、結局時間に追われててんやわんやする羽目になるのは目に見えている。
それも、祭りのような物だし、僕は粛々と僕の作業をして行くのみなのである。
科白は覚えるのではなく入れるもの、体にちゃんと入れて来るんだぞ。
稽古が楽しくなるからね。とか何とか…。
 
 

2008年11月21日金曜日

稽古が始いよいよ始まりました。顔合わせの後、冒頭から本読みをしました。
ダメ出しは合いも変わらす、「まだ、分かっていないのに表現しようとするな」
「自分が理解するために読め」この二つは定番の駄目だしなので、少し飽きてきたかな。気負うのは分かるが、まず本を理解するための稽古とであることを伝える。役者が理解すると言うことはそんなにカンタンな事ではない、感じっこで読んでも遠回りになるだけだ。
 
本を読んできている者とあまり読んできていない者との差があり、演劇への向かい方がよく分かり、今までどういう芝居をやって来たかが分かってしまう。
演劇作りなど冒険に旅立つような物だから、もう少し準備をし覚悟を決めてきて貰いたいと正直思う。まあ最初はいつもこんな物か…。
本が読めていない事にびっくり。役者の技術の最たる物は本を読み切る事なのに。

 

2008年11月17日月曜日

役者紹介Part2


豚の尻尾」原作・百年の孤独のバビロニアを演じた谷修
 
上演台本も出来、稽古前に熱も出し切った事だしウンプテンプ、カンパニーの代表・谷修を紹介しよう。

二文字の谷修くん、並びの悪い名前で本人も気にしている様子。しかしこの並びの悪さが実に本人を言い表しているように思える。まじめさとといい加減が並び悪く共存しているのである。

 
例えば、稽古の休憩中の談笑中でも、おにぎりを片手に、もう片手には台本を放さず広げている。まじめな奴だと普通は思う。しかしよく見ると台本は逆さまなのである。
 

まじめといい加減さ、純粋さと邪悪さ、素直さとずるさ、押し出しの強引さと、突っ込まれた時の弱さ、実に人間として魅力的、いや違った役者として魅力的なのである。
 

持って生まれた清濁がコントロールされ演じる役の幅を大きく描けていく事を切に願望してやまない。見事に客を裏切る、そう言った魅力と可笑しさを兼ね備えているのかも知れない。
 

彼の今回の役はとても難しい、日本が近代国家に成り上がろうとした時代、名字を持たない男で山で瀬振り暮らしをし、幼い妹(お甲)を客に売り、自分だけ這い上がろうとするのだが、結局、帝都の河原で体を売る妹と再会をしてしまう。替え玉という役だ。
 

代表にふさわしいく、身を呈して役作りに苦労するだろう。谷君とは付き合いも長いので、ここに書けない事は無数にあるが、言いたい気持ちを抑えてここは一つ我慢をしよう。「三日月のセレナーデ」では一皮むけた期待を裏切らない芝居をしてくれるか、見事裏切られるか、そのスリリングさも谷修ファンには堪らないだろう。
 

寝る隙も惜しんで?動き回っている谷修は、それだけで役者として認めざる負えない。舞台役者は芝居だけやっていても芝居を知ることはできないのだから!
 
 僭越ながら谷くんにひとつ要望する。役者としてスケベなのは良いのだが、もう少し上手く使いこなせ!

次回からは稽古場が動き出すので、稽古場日記のような物を書こうと思う。
愚痴にならなければ良いのだが……。
   

2008年11月7日金曜日

役者の紹介と愚痴


前回公演「新譚サロメ」サキを演じた蜂谷眞未
 
芝居を観に行く時間が無いので、折角だからウンプテンプの役者を紹介しよう。
 
上の画像の芝居の彼女の役柄は、因習を受け入れ自らの宿命に翻弄されていく島の女の役だった。
今回の「三日月のセレナーデ」では真逆にしようと思っている。
天命に抗う女、それも宮家の令嬢と言った役所である。
『逆もまた真なり』とは思うのだが、演じる方は大変だ。1からコツコツと役を作らなければならないのだから。
 
人ごとのような言い方だが、正直どんな人物になっていくか楽しみである。
まあ、スケールの大きさは並外れている女優で有ることは確かなのだが、今だ僕はどこまで大きいのか分かっていない。
分かっていることは芝居が心底好きで、体力が今の僕よりもあると言うこと。それだけ分かれば十分だ。
役者にうまさなどいらない、役を正直に生きて貰いたい。彼女には観客を裏切り心を抉るそんな芝居を切に願う。
珍し物好きの自分としては、今時珍しいそんな蜂谷という女優には興味を覚えている事は確かだ。
 
おっと、1からコツコツは僕の役回りもそうだった。ああめんどくさい。
また、違う未踏の山を登らなければならないのかと思っただけで、げんなりする。
八合目当たりまでハイウェーでヒューと行けたらなぁと、楽を考えたくもなる。
でも、みんなで山あり谷ありでエンコラエンコラしながら芝居を作るのが楽しいのだよ、と何とか思い込もう。
  
今回稽古場で彼女に言うダメ出しはもうすでに決めてある。(いつものこと)言う機会があれば良いのだが…、谷に落ちてしまったときに言うのだけは止めておこう。
 
次回は代表の谷修を紹介せねば、奴はきっと拗ねる。
…。

自問自答


当たり前だが、稽古INまで二週間を切って作品の事を毎日考えている。
台本を弄ったり、稽古場を想像してみたり、スタッフに作品について語ったり、出演する役者の目付きを観察してみたりと、妄想は日々膨らみ現実感が浮遊しだした。

常に、まず自分自信がこれから作り出そうとする世界のその中で、皆を待っていなければならないと思っているのだが、罠を仕掛けて獲物を待ち受けているような気がしないでもない。

今回は何故か乗客を乗せずに離陸してしまった飛行機なにったような心境がしてならない。
こういう時はしばしば大事なことを見失っているものだ。それもごく当たり前の事をね。

稽古INを前にしてファイティングポーズをとっている自分は、一体何と戦おうとしているのだろう?
どうせ戦うのなら、度し難いほど巨大で人間が生み出す醜悪で哀れな摂理に挑みたい、周りを巻き込まず、こっそりと一人で、だがそこは演劇、やはり皆を巻き込んでしまうのだろうか?悩ましさが募る。

僕の好きな一休宗純の語録に深い言葉があった。
「心配するな。なんとかなる」

僕の知っている演劇の楽しさを忘れないでおこう。
そして、一人では何も出来ないのだという、演劇が持つ宿命を……。