2009年4月25日土曜日

驚きの音楽劇 「赤のファウスト」

妙に真剣な男性陣



まず最初に上がってきた、全体での合唱曲の音取りに、青ざめながら真剣に取り組む男性陣。これぞ必死。

 

別の所では女性陣が楽しそうに音取りをしていました。

 

後12曲が控えています。そして来週から立ち稽古に突入。

 

まるで3000メートル障害競走のような感じの稽古になりそうな予感。

 

本読みはやっとこさっとこ最後までは行きましたが、まだまだ掘り起こせるので、立ち稽古の中で、どこまで粘れるかが鍵となりそう。

 

「ファウスト」は読めば読むほど面白さが滲み出て、ゲーテさんはやっぱり凡人ではないことを再認識した本読みでした。

 

気負わないで、本を真摯に起こして行くだけでも面白くなりそうだが、それが難しい。まあチャレンジ精神有るのみと言った所ですね。

 

「驚きの音楽劇」と銘打った今回の芝居、本当に観客も僕まで驚きそうです。

僕も含め、期待と不安が入り交じって進む今日の稽古。

 

2009年4月21日火曜日

一歩前進二歩後退

テーブル稽古3日目。

本読み稽古を行うが、簡単には先に進まない。

それほど難しい本だとは僕は思わないのだが、台本を解釈しながら読むのがあまり慣れていないのか、具体的に台本を読み切れないでいる。
今回のファウストの読み方を皆が慣れるまでには少し時間がいるのだろう。
まず心情的に理解などしようとすると土壺に嵌る類の戯曲だろう。

難しそうに思えて、思わず忘れてはならないのが遊び心とかユーモア、エスプリがなければ超えられない壁に跳ね返されるだけだと思う。
役者はそうした自在さと、ここ一番の集中力が勝負であり、高い壁も簡単に飛び越えてしまえるときもあるものだぜ。

稽古が遅々と進まなくても、僕は嫌いな稽古場でないことだけは確かだ。
こうした多大な無駄に思える時間が必ず何かを生み出すのだから。

苦労は早い内にするに限る。トンネルを抜ければ花の咲き乱れる野原が広がっているものだしね。
人は突然、頭が良くなったり、技術が付くなんてあり得ないのだから、今出来る事をやるのみ。「出来る事しかできない」

と言うことで、こういう日には稽古後酒を飲みに行くに限る。
そして新たな明日に乾杯しよう。

  

2009年4月18日土曜日

緊張マタンキのテーブル稽古初日

稽古スケジュールを少し前倒しをして、昨日からテーブル稽古を始めた。
 
眞藤君が本番が終わりこちらの稽古に駆けつけてくれた。
やはり、新しい顔が加わるとそれだけでガラリと場が変わるものだ。
初めての参加はそれだけで緊張感を持って来てくれるからだろう。
何回もやっている奴は、稽古場へはもっとフレッシュな緊張感を作り出せと言いたい。
和みに来ているのではないのだから、打ち解けるのは芝居が出来るのと平行していけば良いのだと思う。

テーブル稽古の初日は、相も変わらず言う事は同じだ。
テープにでも吹き込んでおこうかな。もういい加減飽きたから。
でも何事も最初が肝心だからなぁ。

考える、そして考える。だからテーブル稽古はとても疲れるのだ。

 

2009年4月16日木曜日

稽古開始

新作「赤のファウスト」の稽古が始まった。

昨日は神田さんと晃生君と即興演奏に役者が理屈抜きで即興で動いてみた。
僕は何もしなかったのだが有意義な稽古場だった。

演劇用語のキャラクターといわれる物の正体が感じられたのが面白かった。
意識の置き所や、自在さ、そして身体技術、その総体がキャラクターとして現れる。この先、芝居の世界に生きる役の人物を作っていくにあたって、とても参考になったように思えた。


今日は、ニュートラルから始まる即興を基に音楽とのコラボレーションをする予定だが、今回も理屈抜きなので難易度は高い。扱うのは各々の在り方と言う事になる。さてどうなるか?


舞台作りは、皆で一つ一つ積み木を積み上げていくようなもの、この貴重な時間に参加出来なかった者たちにどう伝えていこうか、思案のしどころである。

 

2009年4月14日火曜日

舞台は全て見えてしまう。

初夏を思わす陽気に誘われて、シアタートラムへカナリヤ派の芝居を観に行った。この所、構成台本の仕上げでパソコンに向かいっぱなしだったので、人混みに出て行くことが久しかった。
 


このカナリヤ派の芝居を観て感じたことはあるのだが、上手く言葉に出来ずにいたが、翌日、練馬公会堂へ文化座の「二人の老女」を観にいって、この二つの芝居を見較べて捉えると、はっきりと言葉に出来るように思える。

 
文化座とは言わずと知れた新劇の老舗、現存する新劇団では一番古いと僕は記憶している。
演劇に対する核に据える物が、受け継がれ脈々と流れている、数少ない劇団である。
時代の流れに軽はずみに乗らずに芝居に向き合っている事が、今回の舞台上演からも、感じられた。一言で言えば作品への情熱とでもいうべき物か…?そして最低限の技術は役者全員持ち合わしている。文化座が60余年その事を拘り続けることは並大抵でないことは、想像するに余りない。


芝居はどのグループでも一生懸命創っているのだ。
当たり前の事を敢えて言うが、演劇に必要なのはその作品に全員が愛情を注ぎ込めるかどうかであり、またそれに値する演目であるかなのである。


カナリヤ派を観てとても鈍い疲れを感じたのは、この事なのかも知れない。
批判を言い出せばきりがないし、面白いことも多々あったが、そんなことはどうでも良いのだ。
センスだけでは芝居は創れないのだ。
かつて同じ言葉を僕も言われてきたが、ようやくその真意が今更ながら腑に落ちた。


そしてもう一つ、自分達へも向けて敢えてはっきりさせておかなければならない事がある。
広い空間で芝居を打つには役者の技術の錬磨が不可欠なのだ。
上昇して金を取れる舞台役者に成りたかったら、身体と声を造りあげなければならない、小劇場出身の役者の陥る最大の問題のような気がする。


昨今、映像を安易に指向する役者が多々見受けられるが、映像は映像で精神の持ちようと違う技術が必要である。
技術がなければ、例え一時期面白がられたとしても、長くは持たない、使い捨ての資本の論理に組み込まれるだけなのだ。
このご時世、もっと大局的に世の中が作りだしていく経済原理と自分との関係を頭を使って考えて欲しいものだ。


カナリヤ派の芝居はやろうとしていることと、それに伴う技術が見合わないと感じた。惜しい。腹立たしいほど惜しい。
まだまだ先に行けるのに簡単に足元をすくわれるな、と言いたい。
舞台は全てが見えてしまう所なのだから…。