2009年4月14日火曜日

舞台は全て見えてしまう。

初夏を思わす陽気に誘われて、シアタートラムへカナリヤ派の芝居を観に行った。この所、構成台本の仕上げでパソコンに向かいっぱなしだったので、人混みに出て行くことが久しかった。
 


このカナリヤ派の芝居を観て感じたことはあるのだが、上手く言葉に出来ずにいたが、翌日、練馬公会堂へ文化座の「二人の老女」を観にいって、この二つの芝居を見較べて捉えると、はっきりと言葉に出来るように思える。

 
文化座とは言わずと知れた新劇の老舗、現存する新劇団では一番古いと僕は記憶している。
演劇に対する核に据える物が、受け継がれ脈々と流れている、数少ない劇団である。
時代の流れに軽はずみに乗らずに芝居に向き合っている事が、今回の舞台上演からも、感じられた。一言で言えば作品への情熱とでもいうべき物か…?そして最低限の技術は役者全員持ち合わしている。文化座が60余年その事を拘り続けることは並大抵でないことは、想像するに余りない。


芝居はどのグループでも一生懸命創っているのだ。
当たり前の事を敢えて言うが、演劇に必要なのはその作品に全員が愛情を注ぎ込めるかどうかであり、またそれに値する演目であるかなのである。


カナリヤ派を観てとても鈍い疲れを感じたのは、この事なのかも知れない。
批判を言い出せばきりがないし、面白いことも多々あったが、そんなことはどうでも良いのだ。
センスだけでは芝居は創れないのだ。
かつて同じ言葉を僕も言われてきたが、ようやくその真意が今更ながら腑に落ちた。


そしてもう一つ、自分達へも向けて敢えてはっきりさせておかなければならない事がある。
広い空間で芝居を打つには役者の技術の錬磨が不可欠なのだ。
上昇して金を取れる舞台役者に成りたかったら、身体と声を造りあげなければならない、小劇場出身の役者の陥る最大の問題のような気がする。


昨今、映像を安易に指向する役者が多々見受けられるが、映像は映像で精神の持ちようと違う技術が必要である。
技術がなければ、例え一時期面白がられたとしても、長くは持たない、使い捨ての資本の論理に組み込まれるだけなのだ。
このご時世、もっと大局的に世の中が作りだしていく経済原理と自分との関係を頭を使って考えて欲しいものだ。


カナリヤ派の芝居はやろうとしていることと、それに伴う技術が見合わないと感じた。惜しい。腹立たしいほど惜しい。
まだまだ先に行けるのに簡単に足元をすくわれるな、と言いたい。
舞台は全てが見えてしまう所なのだから…。

  

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