2011年7月2日土曜日

劇団性の崩壊と、ベルリンの壁の崩壊、そしてバブル景気の崩壊 (雑文)

 
89年にベルリンの壁が崩壊し、90年代を迎えソ連が崩壊していく。
若いインテリ演劇人であれば当然知っている歴史である。

その頃、日本ではバブル景気真っ直中だったが、ソ連崩壊直後バブルもはじけ飛んだ。
今、何故こんな事を書いているかというと、今の日本の演劇(社会)の変質が、この時の東西冷戦の終結と、バブル景気の崩壊とイデオロギー闘争の消滅によって、現実社会そして演劇人に強く影響して行ったのだと思えるからだ。
その頃、僕は32才ぐらいだったと思う、演劇などやっていると、将来の不安はつのるばかりで、息をするのも苦しくなってくる。(それは今も変わりはしないだろう)幸か不幸か僕のような演劇人にはバブルの恩恵などほとんど無かった。

そして幸いにも、僕が演劇をする事に反対し続けてくれた、父が亡くなり僅かばかりかの遺産が舞い込んだ。「これで三年は芝居に集中して出来るぞ」そう思うと途端に息が清々しだした。お終いに息子思いの父のありがたみを知った。

当時、一緒に芝居をしてた同じ年の奴が芝居を止め不動産業に付いた。
その後も奴は良く、かつての劇団の芝居を観に来てくれて、僕を終演後小じゃれたバーに飲みに連れて行ってくれた。

歌が下手なくせに、いつ覚えたか奴はマイクを手にして、聞いてられない流行の曲をカラオケで歌う。
そして真顔で財布を取り出し「俺のような者でも財布が立つようになるのがバブルなんだ」そう言ってカウンターに分厚い財布を立てバブルのなんぞやを説明してくれた。
僕はただ黙って眺めていた、そんな戦友であった友人を憐れにすら感じた。

「お前はがんばれよ」そう言って、別れ際にタクシー代にと言って、奴は申し訳なさそうに1万円を手渡してくれた。僕は当たり前のように受け取り、意気揚々と明日の本番に備えて電車で帰宅したのを覚えている。

ベルリンの壁の崩壊光景を映し出すニュースに胸を躍らせ、変わるだろうこれからの事の期待感を強く抱き、ソ連連邦は消え失せた。そしてバブル景気は急激にはじけ飛ぶ。これが90年代に誰もが影響を与え、何らかの記憶が蘇ってしまう、出来事なのだ。

プロデュース形式の芝居が頻繁に企画されるのがこの辺りからで、劇団を率いていた演出家が一本釣りされていく。そして残された劇団は役者のプールのようになり、プロディースされた演出家の芝居に出して貰うのだが、メイン所は客を呼べるバリューのある役者が担う。劇団自体の公演は日増しに減り出し、劇団員は所属している意味を考えは初め辞めていく。これは今でも変わらない構図だろう。

そして演出家は公共ホールの芸術監督へ就任したり、行政や大学の席へとパラサイトを始める。俳優の一部はマスコミへと仕事の場を移していく。

当時、何人かの他劇団の役者に相談をされた経験があるが、こればっかりは何とも上手く答えてあげられなかった。「悩んでるんだったら辞めちまえ」と言い放つしかなかったのを覚えている。

それまでは商業的な演劇と劇団固有の演劇とははっきり一線を引いてたのだが、90年台に入り次第に、その一線が溶解していくように崩れ去っていく。
今は皆が当たり前のように受け入れているだろうが、当時はいい訳を言いながら自ら一線を越えていった。

名古屋は大須にある「七ツ寺共同スタジオ」のいつも穏やかな二村氏は、強い口調で「あいつら、きちんと総括をしろ、みんなを巻き込むだけ巻き込んで」と行き場のない怒りにも似た言葉を放っていた。

彼らの一種の贖罪なのだろうか?文化庁の助成金制度と事は魑魅魍魎となり、助成を受ける既存の劇団は半ば固定され、団員たちはチケットを売らなくなってくる。
この時期、95年に平田オリザの「東京ノート」が岸田戯曲賞を受賞し、青年団は精力的に活動をしだしていく。

時代の変遷と日本の劇団性の崩壊をかいつまんで改めて思い出してみた。
そして2000年に入った辺りから、演劇ユニットの乱立し出し、そして今の理念なき小劇場ブームが始まるのである。その弊害については今は敢えて語らない事にしよう。


大事な事を言うならば、今また新たな大きな崩壊が起こっていると言うことである。

 
 
   
 

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