2011年7月1日金曜日

演劇を開くー(雑文)

 

僕は芝居を作るときその集団性に拘る。そして僕の拘る集団性というのは一方向のベクトルを持つ一枚岩の集団ではなく、社会の雛形としての集団である。各々が多様な在り方を保管しうるそんな集団なのだ。

大仰な言い方をすれば、作品を創るだけであれば三日もあれば事足りる。ところがどっこい僕には最低でも50日間余りは稽古時間が必要なのである。それは作品を創るための稽古と言うより、集団作りのための稽古と思っている。

俳優が、自分と作品との抜き差しならない関係に辿り着くためには、エイヤーとかけ声勇ましい意気込みだけではとうてい出会えない、己の奥底に潜む内なるモノと作品の何かとが触れ合って初めて「自分の芝居」と実感できるのだと思っている。

演出もその一人でありたい。そう思い通りに、急かして見つけられる類のものではなく、皆が集う場が次第に熟成して、一人一人がそれぞれ辿り付いて行くのだと思っている。そして、その為に演劇自体に内在する方法が有効なのであり。作品は結果生まれていくのだと思う。そこには経験の差も巧みさも関係なく、まずは初心に帰る技術のみが必要なのだ。

そうした主体的な個が揃った時、集団は創造集団となりダイナミズムを生み出し、演劇は演劇の枠を超え、オリジナルな総合芸術となっていくと考える。僕はそれを「劇的なる力」と呼ぶ。常に集団とはバラバラな個人の集まりから始まり出すのであり、そうして生まれた作品は社会の雛形である観客席に対するに値したものになる。そして集団は解体しまた集合し、これを繰り返していくのであろう。

欲を言えば劇場の壁をも突き抜け、まだ見ぬ観客へと向かっていきたい。いつの間にか「効率」と言うものが、背に腹は代えられないのか舞台芸術の世界にも専権して表現行為の不可思議な「制度化」が進んでいる事に危機感すら感じざるを得ない。

例え独りになっても僕は抗い続けるだろう。
類が友を呼ぶまで。

   

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