芝居の感想や稽古場の記録として、忌憚なく思った通り言葉を残そう。 気分を悪くした関係者の方には申し訳ないが、 ひねくれ者の戯れ言として受け流して貰いたい。
2011年2月15日火曜日
ベルナルダ・アルバの家 キャスト決定
世代や様々な経験、そうしたバランスを鑑みながら組みました。まず大事なのは芝居に対する気概と、情熱を持った役者達が集まる事だと思っています。
さあ、どこまで行けるか、ここからです。
出演者
新井純 坪井美香 中川安奈 内田晴子 こいけけいこ 蜂谷眞未 薬師寺尚子 成田明加 森勢ちひろ 西郷まどか
稽古場は賑やかに、時に艶やかにしっとりと、そして真剣な眼差しで、 そんな稽古風情が想像できます。
2011年2月9日水曜日
再び動画のアップ
「ファウスト」とはご存じ、かの有名なゲーテさんが生涯を費やして書いた長編戯曲です。
昔は男性学生には親しまれた作品だったのです。
あらゆる学問を究めた老博士が、今だ知る事の出来ない真理に焦がれて、普遍的な人生の喜びとして享楽を得るために、悪魔メフィストフェレスに魂を売るといった話です。
歳を取っていくとファウスト博士の自責の念と、そこはかとなく襲ってくる無量感が何となく理解できます。男性の倦怠期と言う奴かも知れませんね。無軌道なほどに迸る衝動に身を任せたいと老いると誰もが、その神秘に焦がれるのかも知れません。
僕自身も何故か身近に感じながらこの作品を作った感があります。
教訓は「若い内に遊んでおけ!」ですね。
2011年2月3日木曜日
動画をアップしました。
2011年1月5日水曜日
「ベルナルダ・アルバの家」は女だらけ
男は名前と気配だけがするだけ。
僕としては実は楽しみなのです。今日日、男が軟弱だからと言って女だけが登場する芝居を選んだわけでは決してありません。
イケメン俳優達に殺陣でもさせればお客が入るご時世かも知れませんが、そこは捻くれものの悲しさ、女だけでしっかりとした芝居で魅せたいと思ってしまいました。
話は変わりますが、先日、某美術家の女性が「女は35歳を境に成長が止まるのよ」どうしてなのかと僕に聞いてきました。そんなこと考えてもみなかったのですが、思い当たる顔が何人か浮かびました。
女は40歳からだと思っていた僕には、この思いもよらなかった設問は、これからの命題になっていくかもしれない。
2011年1月3日月曜日
2010年12月31日金曜日
「ベルナルダ・アルバの家」へ向かって今年も暮れる
行く年来る年何て言っても、たった一夜の出来事としか思えない。
だが、今年は特別な年なのかも知れない。
ウンプテンプ・カンパニーを立ち上げ三カ年計画を公表して、4本の連続公演を打つ続けて来た。その最後の年を迎えるのだから、しっかり出来たことと、そうはいかなかったことを踏まえなくてはと思っている。
自らの原則にぶれることなく、易きに流れず一本一本しっかりと芝居をやり続けることがどんなに難しいことか、改めて思い知る。
何しろ芝居は一人では出来ないのだから、当たり前の事と言えば当たり前だ。
次回作へ向け、誰に何と思われようが果敢に進んで行かなければならないのだ。
変に訳知りの大人などにならず、寧ろ自らの沸き起こる欲望に従おう。唇を歪ませながら、虎視眈々と演劇を企てていこう。
見えない醜悪なるものに抗い続けている自分は今だ健在だ。
成せばなると信じていた、若いときと何も変わらないで居たいものだ。
そして内に生じる怒りにも似た懐疑心と混乱、そして焦燥感こそ、清い作品を生み出す肥やしのようなもの、だから今はさ迷いながら除夜の鐘でも聞こう。
2010年11月26日金曜日
ウンプテンプ・カンパニー第10回公演決定!
次回公演が正式に決まりましたので、いち早く発表します。
昨年、好評の内終演した「血の婚礼」に引き続き、ロルカ三大悲劇の傑作と称される「ベルナルダ・アルバの家」を上演いたします。
開場は再び両国の「シアターΧ」で行います。
2011年9/1~9/4までの6ステージ公演です。
ベルナルダ・アルバ役は新井純、その5人の娘達はウンプテンプお馴染みの女優達が集います。
そう、今回は女だけの芝居なのです。
そして神田晋一郎氏の作曲と生演奏もお楽しみに。
「牡丹江非恋歌」の満州から再びアンダルシアへと戻り、何だか里帰りした感じがします。
また一風変わったウンプテンプ流に味付けしたガルシーア・ロルカの芝居をお見せしたいと思います。
また詳細が決まりましたらお知らせします。
胸を掻きむしられるほど、僕はロルカが好きです。
2010年11月19日金曜日
「牡丹江非恋歌」無事に終演いたしました。
観に来てくれた大勢の方々、ご尽力くれた人たちには心より感謝致します。
今回は連続公演の谷間にあたる公演だったので、やばいと思い気合いを入れて台本作りに専念しました。
テキストを真ん中において、稽古場が動き始めればとの思いを込め、半年間、資料を読み漁り、何とかちゃんとした本が出来ました。
稽古は案の定大変でしたが、いつしか全員で世界感を共有して自分自身が好きな作品になりました。
終わった瞬間に燃え尽きました。
寄る年波には勝てないものですね。
次回作はもう少ししたら告知します。
これだけは言えます、全く違った作品になる事でしょう。
皆さんお疲れさまでした。
2010年11月15日月曜日
お客の評判は上々。
「牡丹江非恋歌」も残り3ステージのみ、日々かなり手ごたいを感じる上演を続けている。役者もしんどいだろうがもう人踏ん張り、歴史に名を残す勢いで行け行け!
役者は良くやっているのは分かる、がこんなもんじゃあない、もっと高見を目指すぞ、いくら評判が良くても、まだまだ未完成なのだ、やり足りない部分など星の数ほど有るのに、
いま風の演劇を蹴散らすいきおいモットほしい。
2010年11月12日金曜日
「牡丹江非恋歌」無事に初日を迎える
初日乾杯のたった一口のビールでふらふらと酔った、これも僕の恒例。
芝居の方は無事幕が開い、お客の集中力に助けられた舞台だった。
しかし相手と芝居をするのがどんなに難しいかよく分かった。
役者よもっともっとその事を肝に銘じて、果敢に客席に向かってくれ。
あとは8ステージ、まだまだこの芝居は成長していくだろう、とても楽しみだ。
「牡丹江非恋歌」劇中から
水の流れる音が聞こえてくる。
追い求めた父の後ろ姿は時代の波に飲みこまれ、杳として消えた。
私だけ喘ぎながら息をして、細々と生きている。
あの時、私は何と口づけを交わしたんだろう?
大切な物だった気がする。
…広々とした空を風が遊んでいる。
そこはかとなく深い思いが沸き起こって来る、そんな不思議な芝居です。
まだ席が空いていますので、是非観に来て下さい。
2010年10月6日水曜日
「牡丹江非恋歌」稽古真っ直中!
何となく芝居の世界感が見え始めてきたのかも知れない。
先日、黒沢明の「デルス・ウザーラ」を役者に見て貰ったら、芝居が変わり始めた。黒沢恐るべし。でも良い映画だ。
「牡丹江非恋歌」はとにかく難しい芝居だと思う。だって自分自身未知の部分が石ころのようにごろごろ転がっている。僕にとっては、それが面白いのだが、役者は主体的であり続け無ければならない、それが大変だ。
大きな壁に立ち塞がれないで、予定通り稽古が進めばかなりの不思議な芝居が生まれるかも知れない。しかし何か起こるのが稽古場というモノ。
来週から一週間は少し詰めたハードな稽古をする予定だが、最近は役者の事より自分の体力が持つか心配だ。でも超さなければならないハードルというモノは芝居作りにはある。誰がどうのと言うより全体を二段階ぐらい上げておけば、後が楽になる。
いつの間にか計画的な人間になってしまった。行き当たりばったりが信条だった僕が、ああ、やんぬるかな!
芝居としては面白いものになるはずなので、どうかご覧あれ。
見なきゃ損をするそんな芝居だろう、きっと。
何しろ、満州とオンデーヌとバタイユと阿片とが絡まり切って、外輪船に揺られて牡丹江を流れていくのだから 、見た事のない芝居にはなるはずだ。
2010年9月12日日曜日
一日寝ていた。
台本も第二稿をメンバーに提出し、最初のスタッフ会議も終わり、チケット売りも開始したので、安堵の一段落なのだろう。
台本は最終稿まで、どこまで詰め切れるか体力との勝負と言った所。
稽古場では台本を真ん中に置いて、皆が向き合いたいものだ、僕にとって当たり前の事なのだが…。
僕にとって当たり前の事とは、僕に芝居を教えてくれた先達たちの拘ってきた事なのだ。
今日、睡眠に微睡んでいる最中に、先輩がまた一人亡くなった。
今度の芝居はまたもや、僕流の「弔い」になるだろう。
良い芝居にしなくては。
2010年7月25日日曜日
第9回公演のお知らせ
時は日本による満州国建設直後とします。
物語はフィクションです。
舞台は満州の牡丹江を下る蒸気船の中で繰り広げられます。
行方不明になった父を探しに渡満してきた男、三四郎が経験する水の精との幻想の恋と、やがて知る事になる父親の死の真相、そして偽りに満ちた現実によって構成されていくでしょう。河を迷走する船のように運命に翻弄されていく時代と、そんな時代に生きた様々な人間たちの哀歌として語られて行ければと考えています。
ものごとの清濁が交じり、姿を変幻に代え、つかみ所のない、まるで水の流れのような話になるでしょう。不可思議な人の心と言う物が、流れに映れば良いのですが…。
上演日 11月11日~16日(9st)まで
場所 日暮里 D-倉庫にて
前売り 3500円 当日3800円
観覧日指定の全自由席です。
そう言うことで、只今次回上演の準備に大忙しです。
9月下旬からの稽古INまでに、やらなければ成らない事が沢山あり、毎回の事ですが、ルーティーンワークのようにはスムーズに事は運びません。
そんな物です。
今回の舞台は、満州を流れる牡丹江を下る船の中という設定で現在、加蘭京子が執筆中。僕は書かせ役に徹しています。
中国の近代史は、調べれば調べるほどに歴史認識が多様であり、そして当時の世界情勢との関係が複雑怪奇です。
一つはっきりしたことは、日本帝国のスローガンとして掲げた「八紘一宇」という概念と「マルクス・レーニン主義」が概ねそれほど違わないことが分かりました。方や神話からの抜粋なのでよく分からないのです。
しかしスローガンなるものを掲げれば掲げるほど、現実と理想が遊離していくものなのだと思う次第です。
ソ連崩壊以後に出てきた機密文書などを知ると、ますます何が真実なのか分からなくなります。僕が当時、学校で受けた近代史が随分と偏っていたのだと改めて思う次第です。
長い時間軸で、ものごとの是非を捉えると、終わり悪ければ全て悪しとなるわけですね。
芝居もやりゃあ良いというものでないのでしょうね。
2010年2月8日月曜日
血の婚礼 舞台写真
ようやく朝、起き抜けに芝居の事が頭を過ぎらなくなってきた。
そうして、昨日、「血の婚礼」制作委員会の面々と会合を開いた。
みんなも僕と同じだったような状態だったと聞いて、微笑ましく思えた。
決算をだして、ようやく今回の公演は終わった。
そして舞台写真を大量に手渡され、何と言うことか!今、再び「血の婚礼」とはどんな芝居だったのだろうと考え出している。
終演後、様々な人の感想は聞いていてたが、芝居にひっそりと託したモノを今回はあまり見透かされた気がしなかった。
多分、芝居の仕上がりが不鮮明だったのだろう。
まあそれは良しとして、上がってきた舞台写真が綺麗なので、最早すっかり傍観者のように見とれてしまっている自分がいる。
今なら今回の芝居について少しははっきりとした言葉に出来るかも知れないが、今更それも空しいので胸に締めておこう。
ただ、どんなに力んでみても一人では作れないが演劇であることを改めて舞台写真を観て強く思う。
もう暫く迷走しながらでも、困窮する今と言う現実に抗い、しっかりとした芝居を身を削ってでも作っていこう。
舞台には登場していない、血の婚礼の芝居を考え支えていた沢山のスタッフ達に、心底お疲れさまと言おう。
2010年2月1日月曜日
「血の婚礼」の終演
大所帯で望んだ今回の公演は、いくつかの課題を残し、いくつかの成果を掲げてあっという間に過ぎていった。
公演のために大勢の方々の協力なくしては、初日すら迎えられなかったであろう。
声援して頂いた皆様に静かに有難うと言いたい。
個人的には演出という役割について、嫌でも考えさせられた公演に成った。
芝居作りの分業化事態あまり好ましく思っていないのだが、箱が大きくなると、嫌でも各部署での役割と責任が生じてくるようだ。
だからといってパッチワークのような芝居だけは作りたくない。
やはりここいらがポイントか?
最終段階の作品作りで、どこまで詰め切れるかが重要であることは当初から分かっていても、現実、限られた中、体力と時間と智恵を絞り出さなければならない、その事が痛いほど身につまされた公演でもあった。
演出など、やりたいことの5割でも出来れば御の字と思っているが、今回は5割を割っていたかも知れない。
最初から難物ガルシア・ロルカにチャレンジなのだから、良しとするか。
安い話になるよりはまだ増しだ。
しかし正直、悔しい思いはある。
また、再チャレンジしたいと思わせてくれた、そんな「血の婚礼」だった。
また1からスタートをして次の作品に向かおう。
まだどこかなくすぶっている「血の婚礼」を消し去り、頭も心もエンブテーにして、意欲、いや怒りが沸き起こるのを待つとしよう。
役者陣は精一杯、エナジーを絞り出して演じてくれていたので、各々は今回の経験が先に繋がっていくだろう。
ベテラン俳優があれほど苦労し、思いを迸ってくれたのだから、若い俳優たちには有形無形の財産と成ったことを願うばかりだ。
昔からの友人に清い芝居だったと言われたことが嬉しかった。
2009年12月16日水曜日
稽古は一喜一憂する。
2009年11月30日月曜日
今日は音楽のレッスンでいた。
2009年11月29日日曜日
本日から「血の婚礼の」稽古IN
2009年11月26日木曜日
演劇的素数
これは数の並びに、素数が不連続に無限に連なっていると、古代ギリシャの数学者ユークリッドが提唱して、その後、数々の天才数学者が、素数の並びの法則を解き明かそうとして今も尚解明出来ていないのである。リーマン予想とは、ゼーター関数なるものに素数を置き換えるとゼロ地点に一線上に並ぶと予想した問題定義なのであるが。
何故、天才数学者がこの難問に挑むかというと、無限に存在する素数の法則を知ることが万物の摂理を知る事に繋がると夢想してしまうらしい。
僕にはそんな根気も学識もないのだが、彼らの求めてしまう欲求が分からないでもない。
ご存じ素数とは、1と自分自身でしか割れない数であり、言い換えればそれ以上でもなくそれ以下でもない数字なのである。
コンビニのセブンイレブンには隠された暗号が秘めているのかも知れない。
現代の最新のスーパーコンピューターを使ってどのくらいの素数が打ち出されたかというと、確か165億桁あたりまで発見されているというが、想像も出来ない数字であることだけは確かである。しかし無限大からすると屁のような数なのでもある。そう思うと、がっくりと肩の力が抜けてしまう。
話を演劇に戻そう。
僕は演劇作りも数学に似た部分を良く感じる。
演劇も、それ以上でも以下でもないポイントを発見して、その点を繋げていく作業だと思えることがある。そして稽古場でそれを実感することも多々あり、その点を不連続に発見するのだが、そこには何かの法則が有るような気がして成らないが、どうやらそれは演劇の神様だけが知る領域なのかも知れない。
それ以上でも以下でもないポイントをどのくらい発見出来るか楽しみなのであるが、作るのは人間、欲もあれば邪念も生じ、保身にもまみれる。この人間の様をみるのも楽しいと思えなければ、演劇は享楽から研究に変わり、稽古場は、研究室か道場のようなものに成ってしまう。
ああ、そんなのは嫌だ。
救いは、演劇には本番が用意されていて、分かろうが分かるまいが、やらなければ成らないのである。
出来るまで生涯をかけて作り続け無くても、止ん事無きかな、終演がすぐに来るのである。
ただ、それ以上でも以下でもない、「瞬間」を皆で味わいたいものだ。
そう僕の現実感は至って気迫であり、無限と瞬間とは背中合わせの関係に感じられてしまう。
次回作「血の婚礼」の稽古ももうすぐ始まる。
僕も役者の経験があるから分かるのだが、稽古INする前の役者の精神状態は不安定になるもので、演出を始めてから、役者でなくて良かったと思えてしまう今は稽古IN直前なのである。
だから、僕は台本も取りあえず上げて、今は暢気なことを言ってられる唯一の時なのだ。
逆に早く人間である出演者たちと触れ合いたいと切望している。
2009年11月3日火曜日
寒くなった。
すこぶる体調悪し、氷雨が顔に当たり、頭がキンキンしだした。
次回作の顔合わせをした後、少し芝居から頭を放してみようと思ったら、体調まで悪くなってしまった。
芝居の事を考えてないとダメって事なのか?ナンタルチヤ!
と言うことで、また考え出したら元気になり出してきた。
「血の婚礼」という芝居の役名は一人だけ名前があるが、後は村の女とか娘1とか青年2とか、母親とか花嫁とか敢えて記号化されているので、僕としては人物に入りにくい。
若い頃はチェーホフとかの芝居で、舞台でナターシャとか呼んでいると、虫ずが走る感じがした、俗に言う赤毛モノと言う奴だが、それに比べれば幾分ましかもしれない。
ロルカが敢えて固有名詞を付けない「血の婚礼」の真意は、どこにあるのだろうと、考えてはまたその考えを疑りだす。
唯一の役名が「レオナルド」と呼ぶ既婚の男だが、この名前に纏わる事柄が物語を貫くキーワードに成っていくのは、少し考えれば誰にでも分かる答えだろう。
それから、どこの田舎でも起こりうる偏在的な物語として読むというのも、在り来たりの解釈だろう。
最初に感じる違和感を突き詰めて行くと、鉱脈を掘り起こせるときがあるものだ。もう少し考えよう。
でも、どうも理屈ではないような気がして成らない。
時間を少し置いて、改めて読み直すと新たな疑問が立ち現れ、芝居の世界に誘いだしてくれる。頭でいくら考えても、人間の不可解さや、関係の不条理さは、現実に起こりうる事柄を超えられやしないのだ。
何故人は争うのか?何故人は血を流し続けるのか?憎しみは何をもたらすのか?
2009年10月29日木曜日
本読み敢行する。
上演台本を書くのに参考にと思い企画したのです。
まだ本稽古は一ヶ月後ですが、そろそろ役者は各々準備をして貰わなければ成りませんから…。稽古INしてから準備しだしても間に合わないことなど沢山ありますからね。
そして初読みはおかしな緊張感があって楽しめます。
いや失礼。その人となりが一番分かるという意味で楽しいのです。
でも、駄目出しが出来ないのはもどかしいですし、我慢するのが大変です。
どうも最近の傾向として、役者が年間何本も芝居をするようになりました。
劇団性の求心力が弱くなったためなのか?作・演出が当たり前に成ってきたためなのか?分かりませんが、役者には、一本一本もっとじっくり芝居をして貰いたいと思うの次第です。
芝居なんかは、やりゃあ良いという類のモノでもないですからね。
2009年10月24日土曜日
いよいよ前売り開始!
もう後戻りが出来ない感じがして、忘れているものはないか?やり残したことはないか?と、ちょっと心配になるのです。
演劇は勿論これから作っていくのですが、僕にはここまでの準備の過程で、すでに作品が出来不出来が運命づけられている、そんな気がして成りません。
今回は新しい試みをしたいし、参加するメンバーの顔ぶれも実に多彩なので、わくわくする一方、どこか一抹の不安が残ります。
でも、ロルカの作品に触れて行く内にどんどん世界にのめり込んで行っている自分が分かります。
もしかしたら自分一人が盛り上がっているだけかも知れないと言う、疑心暗鬼が不安にさせているのかも知れませんが、どうやらこの裏腹の思いは毎度のことでした。
みんな揃ってさあ行こう、何て信じていません。
常に誰か個人が突出してリードしていくのが原理です、そしてその誰かは常に変わりうる物だと思っています。
ロルカは僕の中では思い込みも多々あり、一連の関心の流れの中に連なる作家であり、僕が手がける作品の根底には同じものが流れています。
「血の婚礼」は、ロルカの作品の中でも実に多面性があり、きわめて魅力的な作品だと思っています。
こねくり回さないで、シンプルにアプローチしていくに限ります。
前回、宮沢賢治をやりましたが、ロルカとは、とても似通った共通のものを感じています。二人の生きた時代や土着性とモダニズムの混在、そして性と死について扱っている点でしょうか、ただ風土がもたらす太陽や草花や土の色合いだけは、はっきりと違います。この違いが僕にとっては難しそうです。
これからどんな舞台が出来上がるか楽しみですが、今風の芝居で無いことだけははっきりしている気がします。
群衆劇としてロルカの世界の核だけは見失わずに、劇化していきたく思っています。
やっぱりロルカは良いですね。
老いも若きもご覧になって頂きたい、そんな思いです。
2009年10月13日火曜日
チラシ版下無事入稿?
やはり慣れないことは疲れる。
ここ一週間印刷物関係の創作に掛かりきりになってしまった。
実はここだけで言うのだが、人には物事への集中への入り方があるもの、僕の場合、チラシ作りがそれだ。写真を加工したり、色味を弄ったり、レイアウトの構図を試行錯誤したりするのが習わしなのだ。
この事は最近気づいたのだが、こうした作業を徹夜で日々チマチマやるうちに、これから作る芝居の雰囲気や芝居が持つ気分がはっきりしてくるのだ。
だから出来上がりのチラシを見て貰うと本番の舞台と似通ったものが感じるだろう。演出と宣伝美術を兼任しているのだから当たり前と言えば当然なのかも知れない。
チラシ、ポスター、チケットと入稿を済ませたので、これからはすっきりと本業の台本づくりに入れるかな?そうも行かないのがウンプテンプ。これがまた色々と人間間の問題が生じる。
昨日は劇場の下見にSTAFF何人かと両国まで行ってきた。
シアターΧは良く行く所だが、やるのは初めてなのだ。さあ、どう舞台を組もうかシアンクレールだ。
やはり思うのだが、僕は家でパソコンの前にいるより、劇場にいる方が好きだ。
さあ、今回の「血の婚礼」はどこまで行けるかな?
*画像は加工しまくってしまい、最早写真では無くなってしまったかも知れない、雨の中撮ってくれた今井さんごめんなさい。
それから、忙しい時に、嫌な顔一つしないで絵の描き直してもらい、川越さん有難う。
でもメールでのやりとりだったから本当は凄い顔をしていたかも…。
2009年10月8日木曜日
期待して観に行ったのだが…。
忙しい中の息抜きと、出演する昔の教え子が招待してくれたので、せっせと自転車を走らせた。
それから、黒テント時代の後輩筋に当たる奴の作・演出だったので、作風がどう変わったか、どう歳を取ったのか観てみたかった。
とある青色吐息の劇団が、「学校の幽霊」と言う芝居の稽古のその最中、演出家が癌を煩い死んでしまい、その公演はやがて中止になると言う筋立てのバックステージ物だった。
子供向けのミュジカル劇団という設定らしいが、そりゃあんなくだらない子供を馬鹿にしたような芝居を作ってたら、劇団は立ちゆかなくなるのは当然のこと、これが最大の構造的矛盾。
芝居は水物である事は承知で言うが、正直、観終わった後に残るのもは無かった。
安っぽいセンチメンタルだけが芝居の核なのか?おセンチな場面は決まってBGMが流れるし…何がしたかったのか?
無性に腹立だたしさだけがこみ上げてきた。本当に内容が無いのである。その一言に尽きる。矛盾だらけの薄い話を、関西人でも呆れるような、くどく相当ひっつこいコテコテのギャグと、古いネタのダジャレで埋めているだけだった。休憩中帰るお客が結構居たのも頷ける。
無理に笑わせようと狙いすぎているのは、お客が一番分かっている。
勿論ノリの良いお客は数人必ず居るものだが、他の客は全く笑えていない。
あの台本じゃあ、役者はさぞ大変だったろうと思いながら観ていた。
迎合と堕落という言葉が僕の脳裏をちらつく。
一緒に芝居をしていた奴だけに尚更だ。
それから、若い男の子達を大勢アンサンブルのように起用しているのだが、彼らの存在は物語との整合性はなく、賑やかしでつまらないギャグをさせているが、若い連中にはもっとちゃんと芝居をさせてあげて欲しかった。
どたばたギャグが悪いわけではない。これは彼のスタイルでもあるが、以前あった奥底に流れる、一貫した通底する深い思いが全く見えない。
その不甲斐なさが腹立たしい。
人情喜劇を作りたいのだったら、奇をてらわずにしっかり書いて貰いたい。
僕はギャグは稽古場で役者が作っていくものと思っているし、受けないギャグは演出は認めない。作家がつまらないギャグを書いて水増ししてどうするんだ。
僕の好きな名のある役者も出演していたのだが、本がひどいと魅力もヘチマもあったモノじゃない。
作家は書けなくなる時、いや書くべき物を失う時はある、その時は書かなければいいだけのことだ。
もっと、ちゃんと芝居をしようよ。
50過ぎの名の通った作家なのだがあまりにも幼すぎる。
この芝居を見る限り、人それぞれのセンスの問題だけでは、演劇を語れない気がする。
僕には東京の演劇情勢の病巣が垣間見えて仕方ない。
終演後、教え子と合う。相変わらず泪眼で、元気ですか?元気ですか?と繰り返していた。一途なその様は相変わらず可愛かった。
俺は もう、そんなに元気じゃねえよ!
すべては、ここから始まり出す。
芝居作りは難しいと思わなくなったが、広告デザインは奥が深く芝居作りで一番、経験がない分労力と頭を使う。
この時期に出演者が全員が揃って写真を撮る事自体かなり大変だ。
昨今、芝居を観に行くと沢山の折り込みチラシを貰うが、チラシはセンス良く綺麗でおもしろそうに思わすチラシがあるが、その芝居を観に行くと…あれ別物?その手合いのモノが多すぎる。
資本主義全盛(スターリン共産主義の時も)の中で成長した「生産効率」と言う名のもとで、大事なモノが次々その本質を失っていく。いや、正確には、いつの間にか生じた様々な「制度」を疑うことすら出来ず考えなく受け入れてしまっているように思える。
そんなにみんな仕事がしたいのかよ?
以前情報誌の「ぴあ」が、チケットぴあなるものをコンピューターを導入して、商いをやり始め出した時があったが、その時はまだ物議を呼んだ。
とかく物事が変質する時は、常に最初は氷山の一角なのであるが、一度それを受け入れてしまうと、後はなし崩し的にテクノロジーという名の怪物が、効率化と経済性という美名の名のもとに、元々の本質が流れ去られてしまう。
でも人それぞれ、チマチマと面白可笑しく、楽に小金を貯め、ちょっと贅沢に少しオシャレに生きていきたいのであれば、それもまた良しなのだろうが…。僕は面白いとは思えないだけだ。
僕の芝居作りは否応なくそうしたした世の中の仕組みに抗ってしまう。
「モノを知らない若い演劇人が多すぎる、男優に多い」俳優を仕事にしたければ、もっと言葉を覚えて貰いたい。
要するに沢山本を読めと言うことだ。
それから間違っているのは、映像と舞台は基本が違いますよ。
アイドルやイケメン俳優を使って客集めしたい気持ちは分かるが、そんなに舞台が簡単に踏めるのが安直だ。演劇が集客命に走りすぎて、自分で自分の首を絞めている気がする。
最近、演劇の経済性のたがが外れたのか、不況だというのに入場料が暴騰しだした。どう考えても今が踏ん張りどころだと思うんだけどな…。
自分の立っている足元の砂をせっせと掘っている感じだ、とうの本人は映像に出たい一心なのか?に、しても自分の公式プロフィールにPV出演まで書くなよ。
ありゃ小遣いが稼ぎに、こっそりするモノだろう。
言い出したらきりがないから止めよう。
若い頃、コンピューターグラフィックスなどと言う言葉すら無かった時代がある。
その頃、平野甲賀さんのデザイン事務所に遊びに良く伺った。(本当は用事を言付かっての使いっ走りだが)平野さんは淡々とブツブツ呟きながら、細かい手作業で貼ったり切ったりしていた、大変な職人芸のようだったが実に味わい深い仕事をしていた。その後に美味しい珈琲をごちそうになり、20才そこそこの若造に四方山話をしてくれたのを思い出す。
とにかく、ここから始まり出すのだ。ウンプテンプ・カンパニーの芝居作りは…。
2009年9月8日火曜日
只今奮闘中!
次回作「血の婚礼」の仮チラシ
この一週間で「血の婚礼」芝居の大枠が決まってくる。各方面から参加者が集まりだし、一つの座組が生まれ出す。僕にとっては、まさにエキサイティングな時なのだ。
毎回のことだが、慎重に、そして原則的にまたは情熱的に様々な志のある者達が集結してくるその様は、あの黒沢の「七人の侍」のわくわく感と同じに思える。
多方面からアーティスト達が一つの舞台の完成に向け、感性と情熱と知性を重ね合わせていく作業は、やはり舞台の醍醐味でもあり、胸躍る一時でもある。
集まりだしたその顔ぶれを一人一人思い浮かべると、ガルシア・ロルカの名作「血の婚礼」が見えてくる。この時代に向けて読み直していく、はっきりとした想像力を喚起させられる。
そして、かなり贅沢な芝居になるだろうことは単純に想像できる。
今は、女にでも一目惚れをして、頭から溢れんばかりの理想化した幻の女が居るようなものだ。
作品作りは一つ一つ積み重ねて深めていく根気と、憤懣やるかたない僕の中に渦巻く苛立つ思いが、作品を必然の方向に導いてくれるだろう。
だから今はただ、風の吹くままにはためいていたい。
そして、これからの限りない試行錯誤をしていく生命力だけは、演劇の神様にすがりたい。
とは言っても、これから何があるか分からないのも、芝居作りの現実である事は覚悟している。
そうした理不尽な現実が身近で起きれば起こるほど、演劇に力を与えてくれるのも因果な事実なのだ。
人に起こる不幸すら芝居作りに想像力をもたらしてしまうのだから、演劇表現とはなんと無粋な行為だとつくづく思う。
切り売りしても良いぐらいの生命力を授かりたい!
もう暫くしたら、ウンプテンプ・カンパニー版「血の婚礼」が如何なるものにしていくか語り出すかも知れない。でも舞台を観て貰うのが一番確かに伝わるのだろう。
ウンプテンプ・カンパニーでは、開かれた演劇を実践していきたいのだ。そして演劇が持つ、本来の総合的な芸術表現を求めてやまない。
今は、ただ乞うご期待の一言で納めておきたい。
2009年8月28日金曜日
カポーシアターひとまず終演
協力してくれた仲間達、そして足を運んで頂いた観客達に御礼申し上げます。
宮沢賢治の言葉と精神を扱うのは、やはり至難でしたが、お客様の反応は上々で、アットホームなビロードの夜のような素敵に不思議な二夜が生まれました。
タダゆったりと観て頂こうと思っておりましたが、思った以上にお客様が入りすぎてしまって、少々窮屈な思いをさせてしまったのではないかと気がかりです。
出演者達も大勢の観客に身近で観られ、最初は戸惑い気味でしたが、やっている内に空間を掴んでいったようでした。
さあ、これからです!
「血の婚礼」に向けて頭を切り換えなければ…。
2009年8月19日水曜日
「物語る演劇」 さあ、どこまで行けるか?
作曲・演奏の神田晋一郎氏の音楽も冴えだし果敢に新たな世界を生み出している。
僕自身も賢治の作品中、初めて扱う4編(マリヴロンと少女、まなづるとダァリヤ、いてふの実、シグナルとシグナレス)を原文そのままに劇化していくのだから、かなり真剣にチャレンジしていかなければ、賢治風の雰囲気だけになってしまうのが怖い。これが正直な今の感想だ。
カポーシアターとは、「劇場」という約束された演劇の場以外で行う非演劇的行為なのだ。逆に言えば人が集う場所ならそこを劇場にしていく、そうした活動でもある。
役者達は演じると言う事を再度捉え直さなければならなくなるだろう、だからそう容易くは行かないのは当然と言えば当然だ。
まず作品を理解をしなければ自由になれないし、そして観客に伝える意志を持つこと、まずそこから出発して表現に辿りつく。この事は至って当たり前の事だが、その未踏の一歩を自分の足で踏み出すのが難しいのだと思う。
観衆の前で演じると言う事は、どうやら自明でもなければ、約束されてるわけでもないのだ。
結果としての表現が生まれ、その方法の一つとして演じるという現象がが起こるのだと僕は思っている。
カポーシアターは、否応なく自らの演劇の概念を見直さなければならず、役者がもっとも鍛えられていく、そんな試みでもある。
ようやく大変なことをやり出した事に役者達も気がつき始めたようなので、かなり面白くなるかも知れない。
役者と言う生き物は、本当の瀬戸際に立ったとき忘我の粋に達すると僕は思っている。
今回は都会の日常ではあまりお目にかかれない、賢治のあの不思議なトリップする世界が現出する かも知れない。
いや、是非観客を一つの青い因果交流電灯の灯る、ウンプテンプワールドへ誘いたい。
公演は今月の26日と27日の7時半より行うので、変幻の光のトリックのような世界を甘受するのがお好きな方は、是非乃木坂まで足を運んで貰いたい。
2009年7月23日木曜日
カポーシアター計画発進
いよいよカポーシアターが動き始めました。
ウンプテンプ・カンパニー3カ年計画に盛り込まれている、カポシアター計画ですが、これはフットワークを軽くして、役者達が主体になって作ります。そして面白い場所に出向き、そこに劇空間を作り出す、そんな電撃的非演劇活動です。
因みにカポーとはおかしな二人づれと言う、カップルの俗語です。
カポーシアター第1弾目は、宮沢賢治の世界をウンプテンプ流に捉え直し、役者三人と神田氏のピアノ演奏でお贈りします。題して「ビロードの夜に」。
■カポーシアターvol.1「びろーどの夜に」~宮沢賢二より~
■2009年8月26日(水)、27日(木)開場:18時半開演:19時半
■会場:乃木坂コレドシアター(03-3470-2252)
■チケット:前売り・当日⇒2000円
■構成・演出:長谷トオル
■出演:谷 修、蜂谷 眞未、成田 明加
■ピアノ演奏・作曲:神田 晋一郎
■衣装:竹本 さよこ
■制作:ウンプテンプカンパニー
■協力:加蘭 京子、森勢 ちひろ、吉野 翼、手塚 謹弥
■チケット予約&お問い合わせ:ウンプテンプカンパニー制作部070-6650-2606
■アクセス:千代田線乃木坂駅2番出口右隣日比谷線・大江戸線駅徒歩8分
■18時よりCOREDO BARにてお酒とお料理を楽しんで頂けます!
2009年7月4日土曜日
演劇作りでの関係性とは
この度ウンプテンプ・カンパニーのコアメンバーに女優・森勢ちひろが参加した。
彼女とは過去に何回か一緒に作品を作ってきていて、何故か常に重要なキーパーソンに成る役柄を演じている。
前回の「赤のファウスト」では悲劇の構造を背負い込むマルガレーテを演じきった。
公演が終わって、彼女は自分は全然ダメだったと暫く落ち込んでいたらしい。役者として欲がわき始めたなと、一皮剥けた女優を目の前にして密かに僕はほくそ笑んだ。
演劇は関係の芸術である、と多くの先達が言っていたが、僕もそう思ってきたし、これからも演劇に於ける関係性を拘り続けていくことになるだろうと思う。
以前、僕が考えていた演劇での関係というのは、その時々の現実社会の雛形のような物でありたいと思ってきた。
しかしいつの間にか、時代は経済と言う怪物が暴れ回っているようで、演劇表現がもたらす固有の価値を生み出しにくく成ってしまったように思える。
演劇集団の在り方を根底から捉え直さなければ、直ぐに足元をすくわれてしまう、今はそんな演劇を取り巻く状況のように思える。
どの演劇グループも作り手の現実的な問題として、様々なアプローチをしながら芝居作りや集客を考えているはずであるが、制度化された現実をどこまで受け入れるかが最大の難問であると思う。
きちっと密度の濃い芝居を作ること自体が難しくなっている。いや表現全般において同じであろう。おかしな時代だとつくづく思う。
良い芝居を作るための関係性を拘っていかなければ成らない。
言う生やすしである。その事を踏まえて期限付きでスタートしたウンプテンプ・カンパニーは、「良い芝居を作りたい」その一点で座の組み方を、残り2年間は拘ろうと考えている。
演劇を作るのと同じように、集団性の模索は意識的に常に続けていかなければならないのだと思っている。開いた集団を目指して…


















