2010年2月1日月曜日

「血の婚礼」の終演

シアターΧ提携公演「血の婚礼」が無事終演いたしました。

大所帯で望んだ今回の公演は、いくつかの課題を残し、いくつかの成果を掲げてあっという間に過ぎていった。
公演のために大勢の方々の協力なくしては、初日すら迎えられなかったであろう。
声援して頂いた皆様に静かに有難うと言いたい。

個人的には演出という役割について、嫌でも考えさせられた公演に成った。
芝居作りの分業化事態あまり好ましく思っていないのだが、箱が大きくなると、嫌でも各部署での役割と責任が生じてくるようだ。
だからといってパッチワークのような芝居だけは作りたくない。
やはりここいらがポイントか?

最終段階の作品作りで、どこまで詰め切れるかが重要であることは当初から分かっていても、現実、限られた中、体力と時間と智恵を絞り出さなければならない、その事が痛いほど身につまされた公演でもあった。
演出など、やりたいことの5割でも出来れば御の字と思っているが、今回は5割を割っていたかも知れない。
最初から難物ガルシア・ロルカにチャレンジなのだから、良しとするか。
安い話になるよりはまだ増しだ。

しかし正直、悔しい思いはある。
また、再チャレンジしたいと思わせてくれた、そんな「血の婚礼」だった。
また1からスタートをして次の作品に向かおう。
まだどこかなくすぶっている「血の婚礼」を消し去り、頭も心もエンブテーにして、意欲、いや怒りが沸き起こるのを待つとしよう。

役者陣は精一杯、エナジーを絞り出して演じてくれていたので、各々は今回の経験が先に繋がっていくだろう。
ベテラン俳優があれほど苦労し、思いを迸ってくれたのだから、若い俳優たちには有形無形の財産と成ったことを願うばかりだ。

昔からの友人に清い芝居だったと言われたことが嬉しかった。

2009年12月16日水曜日

稽古は一喜一憂する。


「血の婚礼」舞台模型



「血の婚礼」の稽古もそろそろ中盤にさしかかってきた。
順調と言えば順調だが、案の定まだこの戯曲の底流に流れている水脈は掘り起こせていないが、
役者の集中力は日増しに増しているから、いつかは水が噴き出すだろうと少し楽観的に思える。
作曲家や振り付けの物作りのテンションが込み上がってくるのを感じ、にんまりはしているが、役者の毒気を一身に受けてしまったのか、僕の身体が膿だして痛い。
この手合いの強く烈しい芝居では、こうした事は度々あり慣れっこだが、自ら溜まった膿を吐き出す力が弱っているようで、何時までも腫れが引かないので医者に行ってしまった。もう歳なのかと思う。

こういうときは、がんばりすぎず全体に身を委ねるのに限る。経験則から得た唯一の智恵かもしれない。

凄い芝居に成る予感がするが、芝居にふるい落とされないように、時には葦の茂みのようにやり過ごさねばと思う。

さて、これから今日の稽古へ向かおう。








2009年11月30日月曜日

今日は音楽のレッスンでいた。





歌を歌う者達(一生懸命)


神田晋一郎による歌と即興とボディーリズムと動きのエチュードを行った。
メーセージ性の強いエチュードだった、「歌を1音1音しっかり歌うのは大変なんだぞ」と繰り返し言っていたので、多分これがメッセージだたのだろう。
それにしてもトークが上手くなったように思える。神田氏の、しみじみと語る1音の意味、苦悩の人生が滲み出ていた。

役者たちは彼の滲み出る切ない思いに誘われ、集中力が増してくるから不思議。

いよいよ明日から、血の婚礼のテーブル稽古だ。
作戦はなしで行こう、喋りすぎないように気を付けよう。妄想を語るのは止めよう。
粛々と掘り下げていけると良いが…どうなる事やら。

今回は、伊藤多恵さんや神田晋一郎など才能豊かな人材ががんばってくれているのだから、僕は、ただ、にこにこしながらみんなの読みを聞いていよう。そんな人に早くなりたい。



2009年11月29日日曜日

本日から「血の婚礼の」稽古IN






出演者たちが踊る?ピアニストも踊る?


今日は「血の婚礼」の振り付けの伊藤多恵さんによるワークショップを行った。
僕はただ観ているだけだったが、多恵さんの具体的で的確な示唆を聞いていて、なるほどと思えたし、同じ事柄を伝えるにも「動く」という観点からだと的を得て分かりやすく伝わるのだと思えた。役者は一度こういうワークショップを経験すると良いと思えた。
演じる時にとかく、心理とか感情で埋めてしまう事があるが、それがどういう事で、何がいけないのか、身体そのもので分かるからだ。

やはり表現とは、肩から力が抜けて、そこに屹立しているニュートラルな状態から生み出されるものだと、改めて思う。



一番下の先頭に立っているのが、今回の作曲・ピアノ演奏の神田さんだ。
明日はその神田さんが、音と声のワークショップを行う番だ。

僕はワークショップと言う言葉はあまり好きではないが、個々には目に見えない成果は確実に感じ取れたと思えるし、今日の経験はこれから築き上げていく「血の婚礼」の芝居全体に影響していくだろう。






2009年11月26日木曜日

演劇的素数

数学の最大級の問題として有名な、19世紀に提案したリーマン予想というものがある。
これは数の並びに、素数が不連続に無限に連なっていると、古代ギリシャの数学者ユークリッドが提唱して、その後、数々の天才数学者が、素数の並びの法則を解き明かそうとして今も尚解明出来ていないのである。リーマン予想とは、ゼーター関数なるものに素数を置き換えるとゼロ地点に一線上に並ぶと予想した問題定義なのであるが。

何故、天才数学者がこの難問に挑むかというと、無限に存在する素数の法則を知ることが万物の摂理を知る事に繋がると夢想してしまうらしい。

僕にはそんな根気も学識もないのだが、彼らの求めてしまう欲求が分からないでもない。
ご存じ素数とは、1と自分自身でしか割れない数であり、言い換えればそれ以上でもなくそれ以下でもない数字なのである。
コンビニのセブンイレブンには隠された暗号が秘めているのかも知れない。

現代の最新のスーパーコンピューターを使ってどのくらいの素数が打ち出されたかというと、確か165億桁あたりまで発見されているというが、想像も出来ない数字であることだけは確かである。しかし無限大からすると屁のような数なのでもある。そう思うと、がっくりと肩の力が抜けてしまう。


話を演劇に戻そう。

僕は演劇作りも数学に似た部分を良く感じる。
演劇も、それ以上でも以下でもないポイントを発見して、その点を繋げていく作業だと思えることがある。そして稽古場でそれを実感することも多々あり、その点を不連続に発見するのだが、そこには何かの法則が有るような気がして成らないが、どうやらそれは演劇の神様だけが知る領域なのかも知れない。

それ以上でも以下でもないポイントをどのくらい発見出来るか楽しみなのであるが、作るのは人間、欲もあれば邪念も生じ、保身にもまみれる。この人間の様をみるのも楽しいと思えなければ、演劇は享楽から研究に変わり、稽古場は、研究室か道場のようなものに成ってしまう。
ああ、そんなのは嫌だ。
救いは、演劇には本番が用意されていて、分かろうが分かるまいが、やらなければ成らないのである。
出来るまで生涯をかけて作り続け無くても、止ん事無きかな、終演がすぐに来るのである。

ただ、それ以上でも以下でもない、「瞬間」を皆で味わいたいものだ。
そう僕の現実感は至って気迫であり、無限と瞬間とは背中合わせの関係に感じられてしまう。



次回作「血の婚礼」の稽古ももうすぐ始まる。

僕も役者の経験があるから分かるのだが、稽古INする前の役者の精神状態は不安定になるもので、演出を始めてから、役者でなくて良かったと思えてしまう今は稽古IN直前なのである。
だから、僕は台本も取りあえず上げて、今は暢気なことを言ってられる唯一の時なのだ。
逆に早く人間である出演者たちと触れ合いたいと切望している。
 
 

2009年11月3日火曜日

寒くなった。

「実に寒い」と思ったら早、11月に入っていた。
すこぶる体調悪し、氷雨が顔に当たり、頭がキンキンしだした。

次回作の顔合わせをした後、少し芝居から頭を放してみようと思ったら、体調まで悪くなってしまった。
芝居の事を考えてないとダメって事なのか?ナンタルチヤ!

と言うことで、また考え出したら元気になり出してきた。

「血の婚礼」という芝居の役名は一人だけ名前があるが、後は村の女とか娘1とか青年2とか、母親とか花嫁とか敢えて記号化されているので、僕としては人物に入りにくい。
若い頃はチェーホフとかの芝居で、舞台でナターシャとか呼んでいると、虫ずが走る感じがした、俗に言う赤毛モノと言う奴だが、それに比べれば幾分ましかもしれない。

ロルカが敢えて固有名詞を付けない「血の婚礼」の真意は、どこにあるのだろうと、考えてはまたその考えを疑りだす。
唯一の役名が「レオナルド」と呼ぶ既婚の男だが、この名前に纏わる事柄が物語を貫くキーワードに成っていくのは、少し考えれば誰にでも分かる答えだろう。
それから、どこの田舎でも起こりうる偏在的な物語として読むというのも、在り来たりの解釈だろう。

最初に感じる違和感を突き詰めて行くと、鉱脈を掘り起こせるときがあるものだ。もう少し考えよう。
でも、どうも理屈ではないような気がして成らない。

時間を少し置いて、改めて読み直すと新たな疑問が立ち現れ、芝居の世界に誘いだしてくれる。頭でいくら考えても、人間の不可解さや、関係の不条理さは、現実に起こりうる事柄を超えられやしないのだ。
何故人は争うのか?何故人は血を流し続けるのか?憎しみは何をもたらすのか?


 

2009年10月29日木曜日

本読み敢行する。

先日、みんなで「血の婚礼」の第二稿の本読みをしました。
上演台本を書くのに参考にと思い企画したのです。
まだ本稽古は一ヶ月後ですが、そろそろ役者は各々準備をして貰わなければ成りませんから…。稽古INしてから準備しだしても間に合わないことなど沢山ありますからね。
そして初読みはおかしな緊張感があって楽しめます。
いや失礼。その人となりが一番分かるという意味で楽しいのです。
でも、駄目出しが出来ないのはもどかしいですし、我慢するのが大変です。


どうも最近の傾向として、役者が年間何本も芝居をするようになりました。
劇団性の求心力が弱くなったためなのか?作・演出が当たり前に成ってきたためなのか?分かりませんが、役者には、一本一本もっとじっくり芝居をして貰いたいと思うの次第です。
芝居なんかは、やりゃあ良いという類のモノでもないですからね。

2009年10月24日土曜日

いよいよ前売り開始!

次回作「血の婚礼」の前売りが昨日から開始しました。

もう後戻りが出来ない感じがして、忘れているものはないか?やり残したことはないか?と、ちょっと心配になるのです。
演劇は勿論これから作っていくのですが、僕にはここまでの準備の過程で、すでに作品が出来不出来が運命づけられている、そんな気がして成りません。

今回は新しい試みをしたいし、参加するメンバーの顔ぶれも実に多彩なので、わくわくする一方、どこか一抹の不安が残ります。
でも、ロルカの作品に触れて行く内にどんどん世界にのめり込んで行っている自分が分かります。
もしかしたら自分一人が盛り上がっているだけかも知れないと言う、疑心暗鬼が不安にさせているのかも知れませんが、どうやらこの裏腹の思いは毎度のことでした。

みんな揃ってさあ行こう、何て信じていません。
常に誰か個人が突出してリードしていくのが原理です、そしてその誰かは常に変わりうる物だと思っています。

ロルカは僕の中では思い込みも多々あり、一連の関心の流れの中に連なる作家であり、僕が手がける作品の根底には同じものが流れています。
「血の婚礼」は、ロルカの作品の中でも実に多面性があり、きわめて魅力的な作品だと思っています。
こねくり回さないで、シンプルにアプローチしていくに限ります。

前回、宮沢賢治をやりましたが、ロルカとは、とても似通った共通のものを感じています。二人の生きた時代や土着性とモダニズムの混在、そして性と死について扱っている点でしょうか、ただ風土がもたらす太陽や草花や土の色合いだけは、はっきりと違います。この違いが僕にとっては難しそうです。

これからどんな舞台が出来上がるか楽しみですが、今風の芝居で無いことだけははっきりしている気がします。
群衆劇としてロルカの世界の核だけは見失わずに、劇化していきたく思っています。

やっぱりロルカは良いですね。
 
 
老いも若きもご覧になって頂きたい、そんな思いです。


 

2009年10月13日火曜日

チラシ版下無事入稿?


加工しまくったチラシ裏に掲載する集合写真



 
やはり慣れないことは疲れる。
ここ一週間印刷物関係の創作に掛かりきりになってしまった。

実はここだけで言うのだが、人には物事への集中への入り方があるもの、僕の場合、チラシ作りがそれだ。写真を加工したり、色味を弄ったり、レイアウトの構図を試行錯誤したりするのが習わしなのだ。

この事は最近気づいたのだが、こうした作業を徹夜で日々チマチマやるうちに、これから作る芝居の雰囲気や芝居が持つ気分がはっきりしてくるのだ。

だから出来上がりのチラシを見て貰うと本番の舞台と似通ったものが感じるだろう。演出と宣伝美術を兼任しているのだから当たり前と言えば当然なのかも知れない。

チラシ、ポスター、チケットと入稿を済ませたので、これからはすっきりと本業の台本づくりに入れるかな?そうも行かないのがウンプテンプ。これがまた色々と人間間の問題が生じる。

昨日は劇場の下見にSTAFF何人かと両国まで行ってきた。
シアターΧは良く行く所だが、やるのは初めてなのだ。さあ、どう舞台を組もうかシアンクレールだ。
やはり思うのだが、僕は家でパソコンの前にいるより、劇場にいる方が好きだ。

さあ、今回の「血の婚礼」はどこまで行けるかな?


*画像は加工しまくってしまい、最早写真では無くなってしまったかも知れない、雨の中撮ってくれた今井さんごめんなさい。

それから、忙しい時に、嫌な顔一つしないで絵の描き直してもらい、川越さん有難う。
でもメールでのやりとりだったから本当は凄い顔をしていたかも…。







 

2009年10月8日木曜日

期待して観に行ったのだが…。

昨日、雨の中自転車をこいで吉祥寺シアターまで、芝居を観に行った。
忙しい中の息抜きと、出演する昔の教え子が招待してくれたので、せっせと自転車を走らせた。

それから、黒テント時代の後輩筋に当たる奴の作・演出だったので、作風がどう変わったか、どう歳を取ったのか観てみたかった。



芝居のタイトルは『バケレッタ!』再演モノだ。

とある青色吐息の劇団が、「学校の幽霊」と言う芝居の稽古のその最中、演出家が癌を煩い死んでしまい、その公演はやがて中止になると言う筋立てのバックステージ物だった。
子供向けのミュジカル劇団という設定らしいが、そりゃあんなくだらない子供を馬鹿にしたような芝居を作ってたら、劇団は立ちゆかなくなるのは当然のこと、これが最大の構造的矛盾。

芝居は水物である事は承知で言うが、正直、観終わった後に残るのもは無かった。
安っぽいセンチメンタルだけが芝居の核なのか?おセンチな場面は決まってBGMが流れるし…何がしたかったのか?

無性に腹立だたしさだけがこみ上げてきた。本当に内容が無いのである。その一言に尽きる。矛盾だらけの薄い話を、関西人でも呆れるような、くどく相当ひっつこいコテコテのギャグと、古いネタのダジャレで埋めているだけだった。休憩中帰るお客が結構居たのも頷ける。

無理に笑わせようと狙いすぎているのは、お客が一番分かっている。
勿論ノリの良いお客は数人必ず居るものだが、他の客は全く笑えていない。

あの台本じゃあ、役者はさぞ大変だったろうと思いながら観ていた。
迎合と堕落という言葉が僕の脳裏をちらつく。
一緒に芝居をしていた奴だけに尚更だ。

それから、若い男の子達を大勢アンサンブルのように起用しているのだが、彼らの存在は物語との整合性はなく、賑やかしでつまらないギャグをさせているが、若い連中にはもっとちゃんと芝居をさせてあげて欲しかった。

どたばたギャグが悪いわけではない。これは彼のスタイルでもあるが、以前あった奥底に流れる、一貫した通底する深い思いが全く見えない。
その不甲斐なさが腹立たしい。
人情喜劇を作りたいのだったら、奇をてらわずにしっかり書いて貰いたい。

僕はギャグは稽古場で役者が作っていくものと思っているし、受けないギャグは演出は認めない。作家がつまらないギャグを書いて水増ししてどうするんだ。
僕の好きな名のある役者も出演していたのだが、本がひどいと魅力もヘチマもあったモノじゃない。

作家は書けなくなる時、いや書くべき物を失う時はある、その時は書かなければいいだけのことだ。

もっと、ちゃんと芝居をしようよ。
50過ぎの名の通った作家なのだがあまりにも幼すぎる。

この芝居を見る限り、人それぞれのセンスの問題だけでは、演劇を語れない気がする。
僕には東京の演劇情勢の病巣が垣間見えて仕方ない。



終演後、教え子と合う。相変わらず泪眼で、元気ですか?元気ですか?と繰り返していた。一途なその様は相変わらず可愛かった。

俺は もう、そんなに元気じゃねえよ!

 

すべては、ここから始まり出す。

「赤のファウスト」出演者達
左からダンサーの吉沢 恵さん、宮崎敏行さん、木村準さん、西郷まどか、谷 修、成田明加ちやん、新井 純さん、桑原なおさん、坂元貞美さん、薬師寺尚子君、手塚謹弥、姫宮みちりちゃん、石井ひとみ嬢、蜂谷眞未、地曳宏之君、そして森勢ちひろ。



先日、雨の中、池の畔の洒落たイタリアンレストランを借り切って本チラシの裏面に載せる集合写真の撮影をした。




出演者16名スタッフ、5名がこじんまりしたレストランにひしめいた。
それも朝、かなり早くにボッとした頭で、お互いに一度っ気に顔を合わすのだから、変なモノだ。僕だけが全員と会って話をしているから少し余裕があるが、老いも若きも緊張するのだろうと思うと可笑しさがこみ上げてくる。留置場にたまたま一緒に入った罪人のような感じかな?


しかし、ウンプテンプ・カンパニーでは最早恒例になっているチラシの集合写真だ。
僕がチラシのレイアウトなどをしなければならないので、デザイナーさんのような格好良いチラシなど作れやしない。
芝居作りは難しいと思わなくなったが、広告デザインは奥が深く芝居作りで一番、経験がない分労力と頭を使う。
要するに、僕なりにチラシに力を注ぎ込めないとダメなのである。力のあるモノを作りたい。その力とは何だ?
一つ言えるのは、良くある出演者一人一人の顔写真を載せている例のチラシの裏だが、一体いつ撮った宣材写真だよと思わすものが混ざる。あれだけはケツの穴が痒くなるほど恥ずかしい。


かつて劇団に居た時は、みんな揃って撮るなど当たり前であったが、こうしたこともいつの間にか出来なくなってきた気がする。



この時期に出演者が全員が揃って写真を撮る事自体かなり大変だ。
制作をした経験の有る人なら分かるだろうが…、合理的に行かないのが芝居、大変さやめんどくささを背負いこむのが、また芝居だと思っている。
のっけからの朝まだきの撮影。皆、お互い名前も分からず困惑しながら、沸々と出演者達の確かな本能が動き始めてくるのを感じる。






昨今、芝居を観に行くと沢山の折り込みチラシを貰うが、チラシはセンス良く綺麗でおもしろそうに思わすチラシがあるが、その芝居を観に行くと…あれ別物?その手合いのモノが多すぎる。
ちょっとセンスがあり勉強すれば、デザイナーさんがillustratorを使って簡単に綺麗にチラシを作ってしまう、これもご時世なのだ。本当に便利になったものだが…。誰が何のために作ったのだろか、演出は舞台美術はと分業化が進む。






資本主義全盛(スターリン共産主義の時も)の中で成長した「生産効率」と言う名のもとで、大事なモノが次々その本質を失っていく。いや、正確には、いつの間にか生じた様々な「制度」を疑うことすら出来ず考えなく受け入れてしまっているように思える。
折り込み業者なるものまで小劇場に入り込んでしまったのが怖い。
そんなにみんな仕事がしたいのかよ?



以前情報誌の「ぴあ」が、チケットぴあなるものをコンピューターを導入して、商いをやり始め出した時があったが、その時はまだ物議を呼んだ。
とかく物事が変質する時は、常に最初は氷山の一角なのであるが、一度それを受け入れてしまうと、後はなし崩し的にテクノロジーという名の怪物が、効率化と経済性という美名の名のもとに、元々の本質が流れ去られてしまう。



でも人それぞれ、チマチマと面白可笑しく、楽に小金を貯め、ちょっと贅沢に少しオシャレに生きていきたいのであれば、それもまた良しなのだろうが…。僕は面白いとは思えないだけだ。
オヤジの愚痴のように思えるだろうが、楽しいことはもっと沢山あるぞ、そう言いたくなる。(やっぱりオヤジだ)






僕の芝居作りは否応なくそうしたした世の中の仕組みに抗ってしまう。
演劇がマス化出来ない仕組みの中に成立する表現行為なのだから、当然と言えば当然なのだと思っている。
バブル以降の若い世代の者たちに失われつつある不条理な物事とその本質を伝えられるかどうかが、僕の本当の戦いなのだろう。






「モノを知らない若い演劇人が多すぎる、男優に多い」俳優を仕事にしたければ、もっと言葉を覚えて貰いたい。
要するに沢山本を読めと言うことだ。
それから間違っているのは、映像と舞台は基本が違いますよ。
同じなのはどちらもかなり本気でなければ続けられないと言う事なのだ。



アイドルやイケメン俳優を使って客集めしたい気持ちは分かるが、そんなに舞台が簡単に踏めるのが安直だ。演劇が集客命に走りすぎて、自分で自分の首を絞めている気がする。



最近、演劇の経済性のたがが外れたのか、不況だというのに入場料が暴騰しだした。どう考えても今が踏ん張りどころだと思うんだけどな…。
自分の立っている足元の砂をせっせと掘っている感じだ、とうの本人は映像に出たい一心なのか?に、しても自分の公式プロフィールにPV出演まで書くなよ。
ありゃ小遣いが稼ぎに、こっそりするモノだろう。
言い出したらきりがないから止めよう。



若い頃、コンピューターグラフィックスなどと言う言葉すら無かった時代がある。



その頃、平野甲賀さんのデザイン事務所に遊びに良く伺った。(本当は用事を言付かっての使いっ走りだが)平野さんは淡々とブツブツ呟きながら、細かい手作業で貼ったり切ったりしていた、大変な職人芸のようだったが実に味わい深い仕事をしていた。その後に美味しい珈琲をごちそうになり、20才そこそこの若造に四方山話をしてくれたのを思い出す。






とにかく、ここから始まり出すのだ。ウンプテンプ・カンパニーの芝居作りは…。





2009年9月8日火曜日

只今奮闘中!



      次回作「血の婚礼」の仮チラシ


この一週間で「血の婚礼」芝居の大枠が決まってくる。各方面から参加者が集まりだし、一つの座組が生まれ出す。僕にとっては、まさにエキサイティングな時なのだ。

毎回のことだが、慎重に、そして原則的にまたは情熱的に様々な志のある者達が集結してくるその様は、あの黒沢の「七人の侍」のわくわく感と同じに思える。
多方面からアーティスト達が一つの舞台の完成に向け、感性と情熱と知性を重ね合わせていく作業は、やはり舞台の醍醐味でもあり、胸躍る一時でもある。

集まりだしたその顔ぶれを一人一人思い浮かべると、ガルシア・ロルカの名作「血の婚礼」が見えてくる。この時代に向けて読み直していく、はっきりとした想像力を喚起させられる。
そして、かなり贅沢な芝居になるだろうことは単純に想像できる。
今は、女にでも一目惚れをして、頭から溢れんばかりの理想化した幻の女が居るようなものだ。
作品作りは一つ一つ積み重ねて深めていく根気と、憤懣やるかたない僕の中に渦巻く苛立つ思いが、作品を必然の方向に導いてくれるだろう。
だから今はただ、風の吹くままにはためいていたい。

そして、これからの限りない試行錯誤をしていく生命力だけは、演劇の神様にすがりたい。

とは言っても、これから何があるか分からないのも、芝居作りの現実である事は覚悟している。
そうした理不尽な現実が身近で起きれば起こるほど、演劇に力を与えてくれるのも因果な事実なのだ。
人に起こる不幸すら芝居作りに想像力をもたらしてしまうのだから、演劇表現とはなんと無粋な行為だとつくづく思う。
切り売りしても良いぐらいの生命力を授かりたい!

もう暫くしたら、ウンプテンプ・カンパニー版「血の婚礼」が如何なるものにしていくか語り出すかも知れない。でも舞台を観て貰うのが一番確かに伝わるのだろう。

ウンプテンプ・カンパニーでは、開かれた演劇を実践していきたいのだ。そして演劇が持つ、本来の総合的な芸術表現を求めてやまない。

今は、ただ乞うご期待の一言で納めておきたい。


2009年8月28日金曜日

カポーシアターひとまず終演

乃木坂のコレドで行われたカポーシアターvol .1「ビロードの夜に」も盛況の内に無事幕を下ろすことが出来ました。
協力してくれた仲間達、そして足を運んで頂いた観客達に御礼申し上げます。


宮沢賢治の言葉と精神を扱うのは、やはり至難でしたが、お客様の反応は上々で、アットホームなビロードの夜のような素敵に不思議な二夜が生まれました。
タダゆったりと観て頂こうと思っておりましたが、思った以上にお客様が入りすぎてしまって、少々窮屈な思いをさせてしまったのではないかと気がかりです。

出演者達も大勢の観客に身近で観られ、最初は戸惑い気味でしたが、やっている内に空間を掴んでいったようでした。

さあ、これからです!
「血の婚礼」に向けて頭を切り換えなければ…。


 

2009年8月19日水曜日

「物語る演劇」 さあ、どこまで行けるか?

宮沢賢治に挑み、役者陣はその深みにあっぷあっぷしながら、カポーシアター第1弾「ビロードの夜に」の稽古は、只今真っ直中だ!
作曲・演奏の神田晋一郎氏の音楽も冴えだし果敢に新たな世界を生み出している。


僕自身も賢治の作品中、初めて扱う4編(マリヴロンと少女、まなづるとダァリヤ、いてふの実、シグナルとシグナレス)を原文そのままに劇化していくのだから、かなり真剣にチャレンジしていかなければ、賢治風の雰囲気だけになってしまうのが怖い。これが正直な今の感想だ。


カポーシアターとは、「劇場」という約束された演劇の場以外で行う非演劇的行為なのだ。逆に言えば人が集う場所ならそこを劇場にしていく、そうした活動でもある。
役者達は演じると言う事を再度捉え直さなければならなくなるだろう、だからそう容易くは行かないのは当然と言えば当然だ。

まず作品を理解をしなければ自由になれないし、そして観客に伝える意志を持つこと、まずそこから出発して表現に辿りつく。この事は至って当たり前の事だが、その未踏の一歩を自分の足で踏み出すのが難しいのだと思う。

観衆の前で演じると言う事は、どうやら自明でもなければ、約束されてるわけでもないのだ。
結果としての表現が生まれ、その方法の一つとして演じるという現象がが起こるのだと僕は思っている。
カポーシアターは、否応なく自らの演劇の概念を見直さなければならず、役者がもっとも鍛えられていく、そんな試みでもある。


ようやく大変なことをやり出した事に役者達も気がつき始めたようなので、かなり面白くなるかも知れない。
役者と言う生き物は、本当の瀬戸際に立ったとき忘我の粋に達すると僕は思っている。

 
今回は都会の日常ではあまりお目にかかれない、賢治のあの不思議なトリップする世界が現出する かも知れない。
いや、是非観客を一つの青い因果交流電灯の灯る、ウンプテンプワールドへ誘いたい。

公演は今月の26日と27日の7時半より行うので、変幻の光のトリックのような世界を甘受するのがお好きな方は、是非乃木坂まで足を運んで貰いたい。
 

 
 

2009年7月23日木曜日

カポーシアター計画発進



いよいよカポーシアターが動き始めました。

ウンプテンプ・カンパニー3カ年計画に盛り込まれている、カポシアター計画ですが、これはフットワークを軽くして、役者達が主体になって作ります。そして面白い場所に出向き、そこに劇空間を作り出す、そんな電撃的非演劇活動です。
因みにカポーとはおかしな二人づれと言う、カップルの俗語です。

カポーシアター第1弾目は、宮沢賢治の世界をウンプテンプ流に捉え直し、役者三人と神田氏のピアノ演奏でお贈りします。題して「ビロードの夜に」。


■カポーシアターvol.1「びろーどの夜に」~宮沢賢二より~

■2009年8月26日(水)、27日(木)開場:18時半開演:19時半

■会場:乃木坂コレドシアター(03-3470-2252)

■チケット:前売り・当日⇒2000円

■構成・演出:長谷トオル 

■出演:谷 修、蜂谷 眞未、成田 明加 

■ピアノ演奏・作曲:神田 晋一郎

■衣装:竹本 さよこ

■制作:ウンプテンプカンパニー

■協力:加蘭 京子、森勢 ちひろ、吉野 翼、手塚 謹弥

■チケット予約&お問い合わせ:ウンプテンプカンパニー制作部070-6650-2606

■アクセス:千代田線乃木坂駅2番出口右隣日比谷線・大江戸線駅徒歩8分

■18時よりCOREDO BARにてお酒とお料理を楽しんで頂けます!

  

2009年7月4日土曜日

演劇作りでの関係性とは

マルガレーテを熱演する「森勢ちひろ」

 

この度ウンプテンプ・カンパニーのコアメンバーに女優・森勢ちひろが参加した。

彼女とは過去に何回か一緒に作品を作ってきていて、何故か常に重要なキーパーソンに成る役柄を演じている。

前回の「赤のファウスト」では悲劇の構造を背負い込むマルガレーテを演じきった。

公演が終わって、彼女は自分は全然ダメだったと暫く落ち込んでいたらしい。役者として欲がわき始めたなと、一皮剥けた女優を目の前にして密かに僕はほくそ笑んだ。


演劇は関係の芸術である、と多くの先達が言っていたが、僕もそう思ってきたし、これからも演劇に於ける関係性を拘り続けていくことになるだろうと思う。

以前、僕が考えていた演劇での関係というのは、その時々の現実社会の雛形のような物でありたいと思ってきた。


しかしいつの間にか、時代は経済と言う怪物が暴れ回っているようで、演劇表現がもたらす固有の価値を生み出しにくく成ってしまったように思える。

演劇集団の在り方を根底から捉え直さなければ、直ぐに足元をすくわれてしまう、今はそんな演劇を取り巻く状況のように思える。

どの演劇グループも作り手の現実的な問題として、様々なアプローチをしながら芝居作りや集客を考えているはずであるが、制度化された現実をどこまで受け入れるかが最大の難問であると思う。

きちっと密度の濃い芝居を作ること自体が難しくなっている。いや表現全般において同じであろう。おかしな時代だとつくづく思う。

良い芝居を作るための関係性を拘っていかなければ成らない。

言う生やすしである。その事を踏まえて期限付きでスタートしたウンプテンプ・カンパニーは、「良い芝居を作りたい」その一点で座の組み方を、残り2年間は拘ろうと考えている。

 

演劇を作るのと同じように、集団性の模索は意識的に常に続けていかなければならないのだと思っている。開いた集団を目指して…

 

 

 


2009年6月26日金曜日

舞台写真をUPします。

「赤のファウスト」舞台写真


















 

先日、自宅にて恒例になりだした「赤のファウスト」のビデオ上映会を行った。

狭い我が家に14名ほどが集い、ひしめき合い、肉を食し、編集が終わった本番のビデオを鑑賞した。

 
僕はもう何度も観ているのだが、改めて観ると色々と思ってしまうが、最早そこに居る役者にはダメは言えない。だから良い所だけを観るようにした。

 
こうやって本番を初めて観る出演者達は何を思ってみているのだろう?
僕とは観ている物が違う気がした。

 
演出という存在は、座組の中心に居るのではない。
どうも輪の外から眺めて、ああだこうだと言っているだけのようだ。だから作品に執着するのだ。そう改めて思った。

このような関係性でアンサンブルが生まれる方が健全なのかも知れない。

少し寂しいが、儘よ!孤独は友なのだ。
 
 
 
黄昏れては居られない。
計画通りに、8月からカポーシアター(おかしなカップル)が動き出さなければ、身軽になって演じるもう一つの上演のスタイルを作りだそう。
 
 

2009年6月13日土曜日

赤のファウスト終演

「赤のファウスト」出演者集合写真


先日、無事に千秋楽を迎え、泡沫の恋のように消え去った「赤のファウスト」。


大勢の人達に観て貰い、何かが彼らの脳裏に残ってくれたら幸いに思うが、いまさらそんに事を思うこと自体未練がましい気がする。

大きな問題も生じず順調に稽古が進行できたこと、皆が一丸となって自分の作品と思えたこと、僕自身余すと来なく作品作りに没頭できたことで良しとする。お陰様で観客の評価も上々の内に終演したのだから。


しっかり空っぽになった僕の気力と体力を、ゆっくり充電して次へと向かおう。

次回作はガルシア・ロルカの「血の婚礼」だ。この作品も音楽劇仕立てにする予定。 アンダルシアの光と影、そしてオレンジの匂いに乗せて…。

 

また1から積み重ねなければ…「血の婚礼」では僕の尊敬するベテラン俳優を交え、世代や経験の違う若いイキの良い俳優が、今や伝説となった俳優達と舞台上でがっぷり四つを組むそんな公演をしたい。

 

今、しなければならないのだから。

 

取りあえずスタッフ・キャストの皆お疲れ様でした。

「赤のファウスト」観に来てくれた皆さんありがとう。






2009年6月7日日曜日

赤のファウスト 千秋楽の前の日

 
せんがわ劇場で行っている「赤のファウスト」もいよいよ明日千秋楽を迎える。
明日はもうソールドアウトしてしまったが、当日来てくれたお客は何とか入れようと思っている。
劇場に行き、みんなの顔を一人一人覗き込むと、やつれてはいるが、目の輝は失っておらず、芝居に対する思いが漲っている。
彼らの顔を見ると、良い芝居なんだと思えて、そこはかとないパッションを貰える。

そして少しずつだが芝居も動いて来た。
音楽劇としては成功したと思っている。苦労した甲斐があり、良い舞台になった。座組が良いのだから当然なのだが、課題も明確になり、明日は出来る事を皆が精一杯やるだけだ。


最近、僕は舞台の完成度を高めることに勤めている。何故なら観客は実に多様であり知識や美意識も芝居のセンスも天と地の違いが、観客席にはひしめいているのが現状だ。

人間は多様で有るべきであり、受け止め方も多様で有って欲しいと思ってきた。
しかし、僕が言う多様性とは、感受性とか考え方や生き方の事であり、今や記号的概念化が進む現代に果たして、多種多様であることが生み出す弊害の方が気になり始めた。やりたい作品を観客に提示するには完成度という力が必要と思える。 この完成度を少しでも上げようとすると、気概とか経済的問題とか、叱咤しなければならない時がしばしば訪れる。これが僕の疲れの基か?

でも、何とか良い舞台にしなければと思う一心でキャストやスタッフへ掛ける語調も荒く粗くなってしまう。個々が持つ矛盾は重々承知だが、やはり舞台作は極力妥協はしたくない。

今回は今回でまた一段完成度を上げた舞台公演を行えた。でもまだまだ、頂きは見えて来ない。 畜生。ゲーテさんハードル高いぜ!

暫くこうした挑戦が続くのだろうか?
僕の気力と体力が失われない限り出来るだけ高見に登りたい。
とうに自分だけでは限界を感じている、志を共に出来る者達と一緒に踏ん張りたい物だ。僕に翼があれば頂まで一人で飛んで行きたいものだが、翼もなければ体力も忍耐もなくなってきている。

今回は嘗ての懐かしい人達が観に来てくれて、久しぶりに再開が適った。僕にとって劇場は時空を飛び越える翼の生えた大鳥のような物なのかもしれない。狂おしいほど懐かしい記憶が蘇ってくる。
昔の友達はみんなばらばらに散ってしまってはいるが、僕の呼びかける声に耳を傾けてくれて本当に嬉しく有難く、そして切ない。

あと一日。まだ終わっちゃいない。
まだまだ先へ行ける作品なのだから持てる全ての気を舞台に注ぎ込もう。
攻めて攻めて攻めきろう。


こんな所で満足などしていられない。
しなやかな僕の戦いはまだまだ続く。

次はドイツからアンダルシアへひとっ飛びでロルカの「血の婚礼」だ。

 
 



 

2009年5月24日日曜日

ファウストとマルガレーテの情欲の炎に焦がれていく場面の稽古風景



ウンプテンプの芝居はこの手のシーンが何故か多いと評判らしい?
しかし毎度、男性陣が様にならないのは、何故なのだろうか?
形にするのが下手、リードするのが下手、ご時世なのか?役者をやろうとする男がシャイだからなのか?疑問だ。


今回は徹頭徹尾、形に拘ろうと思っているが、手強い関門が立ちはだかる。
乗り切れ男ども、悪魔に魂を売った、欲望に駆り立てられる男の悲劇にしたいのだから。


今日は前日の通し稽古の問題点の軌道修正の稽古をした。
少しは先に進んだかも知れない、ここからの稽古は日々遅々と歩みながらの稽古になる。


ネバーギブアップと意気込んだ矢先、若い者のように華麗に動いて見せようとしたら、腰痛に襲われてしまった。

「遊び暮らすには歳を取りすぎた。だが望むことなしに生きるにはまだ若すぎる。ああ、神は、俺の諸々の力をすべて支配しながらも、外の世界に向かっては何ひとつ働きかけることができんのだ」

ファウストの語る、この科白が脳裏を横切った。

明日は楽しい道具と衣装の汚し作業だ。腰痛など糞食らえ!

 

2009年5月23日土曜日

 
今日、初めての通し稽古が終わった。ぐったり疲れた。
観ているだけなのだが、どうしてこんなにエネルギーを消費するのだろう?
そんな自分に呆れる。

役者には力むなと怒鳴りながら、自分が力んでちゃあしかたない。


芝居はまだまだ行ける。いや行かなければならない。
明日、今日の反省を踏まえながら稽古に望もう。
そうテーマは「襲いかかる狂おしき欲望と憧れ」とでもしておこう。

「赤のファウスト」は骨太の芝居にしてみせるぞ。楽曲は繊細なのだから。

 

2009年5月22日金曜日

合唱の練習風景


 
今回の舞台「赤のファウスト」では実に9曲の合唱と4曲のソロがある。
そりゃあもう、目の色を変えて日々稽古に明け暮れている。
勿論、芝居の方もかなり繊細な抑制を心がけた芝居を稽古している。

何せ相手役がスタンウェイーを使って、生ピアノ演奏なのだから、どたばたしたした子供の芝居は出来ない。

 
今回の参加者は歌が専門の人や、ダンス、そしてマイムと多種多様な技術を持っているが、僕の大方針として全員同等に「赤のファウスト」劇化する表現者として扱っている。
それが功をそうしたのか、お互いが持つ技術を分ち合いながら、良い座組を形成してきたと思える。


でも実は「ファウスト」が難物なだけに、皆の力を寄せ集めなければ成らないだけなのかも知れないが…。

 
稽古も追い込みに入り、明日は1回目の通し稽古である。
ゲーテの吐く言葉の力を糧にどこまで完成度を上げられるか?いつものことだが、体力勝負に突入したもよう。

 
観に来た人は贅沢な舞台を観劇するだろうと、僕は密かに思っている。観ない人は損をする、そんな思いで一杯だ。
あまりに勿体ないから、上演するのを止めようかとも思ったくらいだ。

 
良い芝居にしたい。強くそう思う。
芝居の中心にある核を、ぎゅっと掴んでねじ伏せたいのだが、ああ、悪魔には既に身を売ってしまっている僕としては、最早神頼みも出来ないといった有様。
と言っても悪魔と戯れるのも飽きてしまったし、これからどうやって作っていこう、ああシアンクレール。

 

2009年5月18日月曜日

マルガレーテを演じる森勢ちひろ

 

 

昨日は作業日。衣装、小道具、そして舞台制作に精を出した。この段階に来ると、いよいよという気になる。

 

今日からは最終段階の稽古に突入。これからが芝居の出来不出来を左右する、細かい動きやリアクションの作り込みになる。勿論スタッフ達も目の色を変えて、芝居にエネルギーを注ぎ込んで来る。

 

今回、満を持して取り組む「ファウスト」なのだから、行ける所まで行きたい気持ちになる。シンプルで濃密な舞台に成ってくれればと思い、気を新たに引き締めて、これから稽古場に向かう。

そして皆の顔を一人一人見詰めて、エナジーを貰おう。

 

「赤のファウスト」ー悲劇が唱いながら歩き出したー

贅沢な良い舞台に成るだろう。乞うご期待!

  

2009年5月11日月曜日

そろそろ本腰を入れなければ。

稽古中の一コマ

 

休み明けの稽古が今日から開始する。

 

今回は敢えてスローペースを意識してはいたが、やはりじれだしてだしてきた。

 

そして稽古も中盤にさしかかり、
役者の芝居の出来不出来の不揃いが生まれだしてきたもよう。

それぞれ気が付いていればいいのだが、それも今日の稽古で判明すだろう。そろそろ、芝居に魂を吹き込まなければならない時期に来ているので、芝居の密度と役への集中度が揃っていて貰いたいのが本音なのだが、実際毎回そうはいかないものだ。

 
明後日の荒通しが終わって、俯いて落ち込む役者の顔が想像できる。

今回の芝居は余計な事は出来ない、意識化された緻密さが要求されるが、まだまだ読みが浅い。とにかく本を読め!昔から先輩の役者に言われ続けたこの言葉が改めて身に染みる。
 

  

酒を飲む隙が有ったら本を読め。ここが分かれ目なのだ、昔から酒好きの無頼を気取っている役者でも、やる奴は狡くこっそりやっているんだぜ。これ本当のこと。可哀想だが酒に飲まれる奴は駄目なのだ。


2009年5月4日月曜日

休みの過ごし方。

ファウストを演じる谷修

今日は稽古が休みの日。

僕は休みの日はただ身体を休めることに勤める。

若い人たちは芝居を観に行ったりデートをしたりして気分をリフレッシュでもしているのだろうか? 演出としては気になる所だ。

 

本当は、本でも読んでおけこの野郎と言いたくなるが、僕も若いときがあった、そんな時は遊び回っていた、女の子と海に泳ぎに行ったりして、次の日真っ黒の日焼け顔を呆れられた記憶がある。

 

それも今はもう夢の夢、午後4時過ぎ頃にやおら起き出し、風呂に浸かってただぼうっとしている。やらなければならないことは沢山あるのだが手になど付かないほど、頭が動かない。 

 

暫くすると芝居の悪魔が囁き出し。さりげなくメンバーに奮起を促すメールを配信する。そして明日の稽古へ向かっての駄目出しを考え出し、どんな顔つきで登場しようかとか、誰をターゲットにして稽古場を上げていこうか、よからぬ事に頭が働き出す。

本を読んできているやつと、そうでないやつが分かってしまうだけに、休み明けの稽古は疲れる。因みに僕は後者でしたが。

鉛のように鈍く呟き続ける僕に誰か感動を与えてくれ。そして遠くに過ぎ去ったい数々の鮮烈だった記憶を運んできてくれ。この饐えた肉体が少しでもかつての躍動感を味わえるのなら、たとえよからぬ事でも喜んで受け入れるだろう。 

来るべき清き新たなる日に乾杯をささげよう。

既に悪魔には身を売っているこの身、明日からは口から日を吹く鬼にでも成るか。しかしそんな元気も出なかったらどうしよう。イライラするのだけはご勘弁したい。

 

いいかい、稽古以外で何をしているかで役者は決まるんだぜ。

喉から血が出るまで科白を喋っていろよ、明日、声がつぶれているやつがいたら、僕は勇気づけらるのだから。

夕方から衣装のさよが相談しに家に来るが、開口一番お説教で一泣かせして、プランの未熟さ読みの浅さを指摘して困難を与える。明け方5時就寝。

  

これがぼくの休みの日の過ごし方。 

 

 

 


2009年4月25日土曜日

驚きの音楽劇 「赤のファウスト」

妙に真剣な男性陣



まず最初に上がってきた、全体での合唱曲の音取りに、青ざめながら真剣に取り組む男性陣。これぞ必死。

 

別の所では女性陣が楽しそうに音取りをしていました。

 

後12曲が控えています。そして来週から立ち稽古に突入。

 

まるで3000メートル障害競走のような感じの稽古になりそうな予感。

 

本読みはやっとこさっとこ最後までは行きましたが、まだまだ掘り起こせるので、立ち稽古の中で、どこまで粘れるかが鍵となりそう。

 

「ファウスト」は読めば読むほど面白さが滲み出て、ゲーテさんはやっぱり凡人ではないことを再認識した本読みでした。

 

気負わないで、本を真摯に起こして行くだけでも面白くなりそうだが、それが難しい。まあチャレンジ精神有るのみと言った所ですね。

 

「驚きの音楽劇」と銘打った今回の芝居、本当に観客も僕まで驚きそうです。

僕も含め、期待と不安が入り交じって進む今日の稽古。

 

2009年4月21日火曜日

一歩前進二歩後退

テーブル稽古3日目。

本読み稽古を行うが、簡単には先に進まない。

それほど難しい本だとは僕は思わないのだが、台本を解釈しながら読むのがあまり慣れていないのか、具体的に台本を読み切れないでいる。
今回のファウストの読み方を皆が慣れるまでには少し時間がいるのだろう。
まず心情的に理解などしようとすると土壺に嵌る類の戯曲だろう。

難しそうに思えて、思わず忘れてはならないのが遊び心とかユーモア、エスプリがなければ超えられない壁に跳ね返されるだけだと思う。
役者はそうした自在さと、ここ一番の集中力が勝負であり、高い壁も簡単に飛び越えてしまえるときもあるものだぜ。

稽古が遅々と進まなくても、僕は嫌いな稽古場でないことだけは確かだ。
こうした多大な無駄に思える時間が必ず何かを生み出すのだから。

苦労は早い内にするに限る。トンネルを抜ければ花の咲き乱れる野原が広がっているものだしね。
人は突然、頭が良くなったり、技術が付くなんてあり得ないのだから、今出来る事をやるのみ。「出来る事しかできない」

と言うことで、こういう日には稽古後酒を飲みに行くに限る。
そして新たな明日に乾杯しよう。

  

2009年4月18日土曜日

緊張マタンキのテーブル稽古初日

稽古スケジュールを少し前倒しをして、昨日からテーブル稽古を始めた。
 
眞藤君が本番が終わりこちらの稽古に駆けつけてくれた。
やはり、新しい顔が加わるとそれだけでガラリと場が変わるものだ。
初めての参加はそれだけで緊張感を持って来てくれるからだろう。
何回もやっている奴は、稽古場へはもっとフレッシュな緊張感を作り出せと言いたい。
和みに来ているのではないのだから、打ち解けるのは芝居が出来るのと平行していけば良いのだと思う。

テーブル稽古の初日は、相も変わらず言う事は同じだ。
テープにでも吹き込んでおこうかな。もういい加減飽きたから。
でも何事も最初が肝心だからなぁ。

考える、そして考える。だからテーブル稽古はとても疲れるのだ。

 

2009年4月16日木曜日

稽古開始

新作「赤のファウスト」の稽古が始まった。

昨日は神田さんと晃生君と即興演奏に役者が理屈抜きで即興で動いてみた。
僕は何もしなかったのだが有意義な稽古場だった。

演劇用語のキャラクターといわれる物の正体が感じられたのが面白かった。
意識の置き所や、自在さ、そして身体技術、その総体がキャラクターとして現れる。この先、芝居の世界に生きる役の人物を作っていくにあたって、とても参考になったように思えた。


今日は、ニュートラルから始まる即興を基に音楽とのコラボレーションをする予定だが、今回も理屈抜きなので難易度は高い。扱うのは各々の在り方と言う事になる。さてどうなるか?


舞台作りは、皆で一つ一つ積み木を積み上げていくようなもの、この貴重な時間に参加出来なかった者たちにどう伝えていこうか、思案のしどころである。

 

2009年4月14日火曜日

舞台は全て見えてしまう。

初夏を思わす陽気に誘われて、シアタートラムへカナリヤ派の芝居を観に行った。この所、構成台本の仕上げでパソコンに向かいっぱなしだったので、人混みに出て行くことが久しかった。
 


このカナリヤ派の芝居を観て感じたことはあるのだが、上手く言葉に出来ずにいたが、翌日、練馬公会堂へ文化座の「二人の老女」を観にいって、この二つの芝居を見較べて捉えると、はっきりと言葉に出来るように思える。

 
文化座とは言わずと知れた新劇の老舗、現存する新劇団では一番古いと僕は記憶している。
演劇に対する核に据える物が、受け継がれ脈々と流れている、数少ない劇団である。
時代の流れに軽はずみに乗らずに芝居に向き合っている事が、今回の舞台上演からも、感じられた。一言で言えば作品への情熱とでもいうべき物か…?そして最低限の技術は役者全員持ち合わしている。文化座が60余年その事を拘り続けることは並大抵でないことは、想像するに余りない。


芝居はどのグループでも一生懸命創っているのだ。
当たり前の事を敢えて言うが、演劇に必要なのはその作品に全員が愛情を注ぎ込めるかどうかであり、またそれに値する演目であるかなのである。


カナリヤ派を観てとても鈍い疲れを感じたのは、この事なのかも知れない。
批判を言い出せばきりがないし、面白いことも多々あったが、そんなことはどうでも良いのだ。
センスだけでは芝居は創れないのだ。
かつて同じ言葉を僕も言われてきたが、ようやくその真意が今更ながら腑に落ちた。


そしてもう一つ、自分達へも向けて敢えてはっきりさせておかなければならない事がある。
広い空間で芝居を打つには役者の技術の錬磨が不可欠なのだ。
上昇して金を取れる舞台役者に成りたかったら、身体と声を造りあげなければならない、小劇場出身の役者の陥る最大の問題のような気がする。


昨今、映像を安易に指向する役者が多々見受けられるが、映像は映像で精神の持ちようと違う技術が必要である。
技術がなければ、例え一時期面白がられたとしても、長くは持たない、使い捨ての資本の論理に組み込まれるだけなのだ。
このご時世、もっと大局的に世の中が作りだしていく経済原理と自分との関係を頭を使って考えて欲しいものだ。


カナリヤ派の芝居はやろうとしていることと、それに伴う技術が見合わないと感じた。惜しい。腹立たしいほど惜しい。
まだまだ先に行けるのに簡単に足元をすくわれるな、と言いたい。
舞台は全てが見えてしまう所なのだから…。