芝居の感想や稽古場の記録として、忌憚なく思った通り言葉を残そう。 気分を悪くした関係者の方には申し訳ないが、 ひねくれ者の戯れ言として受け流して貰いたい。
2009年8月19日水曜日
「物語る演劇」 さあ、どこまで行けるか?
作曲・演奏の神田晋一郎氏の音楽も冴えだし果敢に新たな世界を生み出している。
僕自身も賢治の作品中、初めて扱う4編(マリヴロンと少女、まなづるとダァリヤ、いてふの実、シグナルとシグナレス)を原文そのままに劇化していくのだから、かなり真剣にチャレンジしていかなければ、賢治風の雰囲気だけになってしまうのが怖い。これが正直な今の感想だ。
カポーシアターとは、「劇場」という約束された演劇の場以外で行う非演劇的行為なのだ。逆に言えば人が集う場所ならそこを劇場にしていく、そうした活動でもある。
役者達は演じると言う事を再度捉え直さなければならなくなるだろう、だからそう容易くは行かないのは当然と言えば当然だ。
まず作品を理解をしなければ自由になれないし、そして観客に伝える意志を持つこと、まずそこから出発して表現に辿りつく。この事は至って当たり前の事だが、その未踏の一歩を自分の足で踏み出すのが難しいのだと思う。
観衆の前で演じると言う事は、どうやら自明でもなければ、約束されてるわけでもないのだ。
結果としての表現が生まれ、その方法の一つとして演じるという現象がが起こるのだと僕は思っている。
カポーシアターは、否応なく自らの演劇の概念を見直さなければならず、役者がもっとも鍛えられていく、そんな試みでもある。
ようやく大変なことをやり出した事に役者達も気がつき始めたようなので、かなり面白くなるかも知れない。
役者と言う生き物は、本当の瀬戸際に立ったとき忘我の粋に達すると僕は思っている。
今回は都会の日常ではあまりお目にかかれない、賢治のあの不思議なトリップする世界が現出する かも知れない。
いや、是非観客を一つの青い因果交流電灯の灯る、ウンプテンプワールドへ誘いたい。
公演は今月の26日と27日の7時半より行うので、変幻の光のトリックのような世界を甘受するのがお好きな方は、是非乃木坂まで足を運んで貰いたい。
2009年7月23日木曜日
カポーシアター計画発進
いよいよカポーシアターが動き始めました。
ウンプテンプ・カンパニー3カ年計画に盛り込まれている、カポシアター計画ですが、これはフットワークを軽くして、役者達が主体になって作ります。そして面白い場所に出向き、そこに劇空間を作り出す、そんな電撃的非演劇活動です。
因みにカポーとはおかしな二人づれと言う、カップルの俗語です。
カポーシアター第1弾目は、宮沢賢治の世界をウンプテンプ流に捉え直し、役者三人と神田氏のピアノ演奏でお贈りします。題して「ビロードの夜に」。
■カポーシアターvol.1「びろーどの夜に」~宮沢賢二より~
■2009年8月26日(水)、27日(木)開場:18時半開演:19時半
■会場:乃木坂コレドシアター(03-3470-2252)
■チケット:前売り・当日⇒2000円
■構成・演出:長谷トオル
■出演:谷 修、蜂谷 眞未、成田 明加
■ピアノ演奏・作曲:神田 晋一郎
■衣装:竹本 さよこ
■制作:ウンプテンプカンパニー
■協力:加蘭 京子、森勢 ちひろ、吉野 翼、手塚 謹弥
■チケット予約&お問い合わせ:ウンプテンプカンパニー制作部070-6650-2606
■アクセス:千代田線乃木坂駅2番出口右隣日比谷線・大江戸線駅徒歩8分
■18時よりCOREDO BARにてお酒とお料理を楽しんで頂けます!
2009年7月4日土曜日
演劇作りでの関係性とは
この度ウンプテンプ・カンパニーのコアメンバーに女優・森勢ちひろが参加した。
彼女とは過去に何回か一緒に作品を作ってきていて、何故か常に重要なキーパーソンに成る役柄を演じている。
前回の「赤のファウスト」では悲劇の構造を背負い込むマルガレーテを演じきった。
公演が終わって、彼女は自分は全然ダメだったと暫く落ち込んでいたらしい。役者として欲がわき始めたなと、一皮剥けた女優を目の前にして密かに僕はほくそ笑んだ。
演劇は関係の芸術である、と多くの先達が言っていたが、僕もそう思ってきたし、これからも演劇に於ける関係性を拘り続けていくことになるだろうと思う。
以前、僕が考えていた演劇での関係というのは、その時々の現実社会の雛形のような物でありたいと思ってきた。
しかしいつの間にか、時代は経済と言う怪物が暴れ回っているようで、演劇表現がもたらす固有の価値を生み出しにくく成ってしまったように思える。
演劇集団の在り方を根底から捉え直さなければ、直ぐに足元をすくわれてしまう、今はそんな演劇を取り巻く状況のように思える。
どの演劇グループも作り手の現実的な問題として、様々なアプローチをしながら芝居作りや集客を考えているはずであるが、制度化された現実をどこまで受け入れるかが最大の難問であると思う。
きちっと密度の濃い芝居を作ること自体が難しくなっている。いや表現全般において同じであろう。おかしな時代だとつくづく思う。
良い芝居を作るための関係性を拘っていかなければ成らない。
言う生やすしである。その事を踏まえて期限付きでスタートしたウンプテンプ・カンパニーは、「良い芝居を作りたい」その一点で座の組み方を、残り2年間は拘ろうと考えている。
演劇を作るのと同じように、集団性の模索は意識的に常に続けていかなければならないのだと思っている。開いた集団を目指して…
2009年6月26日金曜日
舞台写真をUPします。
「赤のファウスト」舞台写真
先日、自宅にて恒例になりだした「赤のファウスト」のビデオ上映会を行った。
狭い我が家に14名ほどが集い、ひしめき合い、肉を食し、編集が終わった本番のビデオを鑑賞した。
僕はもう何度も観ているのだが、改めて観ると色々と思ってしまうが、最早そこに居る役者にはダメは言えない。だから良い所だけを観るようにした。
こうやって本番を初めて観る出演者達は何を思ってみているのだろう?
僕とは観ている物が違う気がした。
演出という存在は、座組の中心に居るのではない。
どうも輪の外から眺めて、ああだこうだと言っているだけのようだ。だから作品に執着するのだ。そう改めて思った。
このような関係性でアンサンブルが生まれる方が健全なのかも知れない。
少し寂しいが、儘よ!孤独は友なのだ。
黄昏れては居られない。
計画通りに、8月からカポーシアター(おかしなカップル)が動き出さなければ、身軽になって演じるもう一つの上演のスタイルを作りだそう。
2009年6月13日土曜日
赤のファウスト終演
先日、無事に千秋楽を迎え、泡沫の恋のように消え去った「赤のファウスト」。
大勢の人達に観て貰い、何かが彼らの脳裏に残ってくれたら幸いに思うが、いまさらそんに事を思うこと自体未練がましい気がする。
大きな問題も生じず順調に稽古が進行できたこと、皆が一丸となって自分の作品と思えたこと、僕自身余すと来なく作品作りに没頭できたことで良しとする。お陰様で観客の評価も上々の内に終演したのだから。
しっかり空っぽになった僕の気力と体力を、ゆっくり充電して次へと向かおう。
次回作はガルシア・ロルカの「血の婚礼」だ。この作品も音楽劇仕立てにする予定。 アンダルシアの光と影、そしてオレンジの匂いに乗せて…。
また1から積み重ねなければ…「血の婚礼」では僕の尊敬するベテラン俳優を交え、世代や経験の違う若いイキの良い俳優が、今や伝説となった俳優達と舞台上でがっぷり四つを組むそんな公演をしたい。
今、しなければならないのだから。
取りあえずスタッフ・キャストの皆お疲れ様でした。
「赤のファウスト」観に来てくれた皆さんありがとう。
2009年6月7日日曜日
赤のファウスト 千秋楽の前の日
せんがわ劇場で行っている「赤のファウスト」もいよいよ明日千秋楽を迎える。
明日はもうソールドアウトしてしまったが、当日来てくれたお客は何とか入れようと思っている。
劇場に行き、みんなの顔を一人一人覗き込むと、やつれてはいるが、目の輝は失っておらず、芝居に対する思いが漲っている。
彼らの顔を見ると、良い芝居なんだと思えて、そこはかとないパッションを貰える。
そして少しずつだが芝居も動いて来た。
音楽劇としては成功したと思っている。苦労した甲斐があり、良い舞台になった。座組が良いのだから当然なのだが、課題も明確になり、明日は出来る事を皆が精一杯やるだけだ。
最近、僕は舞台の完成度を高めることに勤めている。何故なら観客は実に多様であり知識や美意識も芝居のセンスも天と地の違いが、観客席にはひしめいているのが現状だ。
人間は多様で有るべきであり、受け止め方も多様で有って欲しいと思ってきた。
しかし、僕が言う多様性とは、感受性とか考え方や生き方の事であり、今や記号的概念化が進む現代に果たして、多種多様であることが生み出す弊害の方が気になり始めた。やりたい作品を観客に提示するには完成度という力が必要と思える。 この完成度を少しでも上げようとすると、気概とか経済的問題とか、叱咤しなければならない時がしばしば訪れる。これが僕の疲れの基か?
でも、何とか良い舞台にしなければと思う一心でキャストやスタッフへ掛ける語調も荒く粗くなってしまう。個々が持つ矛盾は重々承知だが、やはり舞台作は極力妥協はしたくない。
今回は今回でまた一段完成度を上げた舞台公演を行えた。でもまだまだ、頂きは見えて来ない。 畜生。ゲーテさんハードル高いぜ!
暫くこうした挑戦が続くのだろうか?
僕の気力と体力が失われない限り出来るだけ高見に登りたい。
とうに自分だけでは限界を感じている、志を共に出来る者達と一緒に踏ん張りたい物だ。僕に翼があれば頂まで一人で飛んで行きたいものだが、翼もなければ体力も忍耐もなくなってきている。
今回は嘗ての懐かしい人達が観に来てくれて、久しぶりに再開が適った。僕にとって劇場は時空を飛び越える翼の生えた大鳥のような物なのかもしれない。狂おしいほど懐かしい記憶が蘇ってくる。
昔の友達はみんなばらばらに散ってしまってはいるが、僕の呼びかける声に耳を傾けてくれて本当に嬉しく有難く、そして切ない。
あと一日。まだ終わっちゃいない。
まだまだ先へ行ける作品なのだから持てる全ての気を舞台に注ぎ込もう。
攻めて攻めて攻めきろう。
こんな所で満足などしていられない。
しなやかな僕の戦いはまだまだ続く。
次はドイツからアンダルシアへひとっ飛びでロルカの「血の婚礼」だ。
2009年5月24日日曜日
ウンプテンプの芝居はこの手のシーンが何故か多いと評判らしい?
しかし毎度、男性陣が様にならないのは、何故なのだろうか?
形にするのが下手、リードするのが下手、ご時世なのか?役者をやろうとする男がシャイだからなのか?疑問だ。
今回は徹頭徹尾、形に拘ろうと思っているが、手強い関門が立ちはだかる。
乗り切れ男ども、悪魔に魂を売った、欲望に駆り立てられる男の悲劇にしたいのだから。
今日は前日の通し稽古の問題点の軌道修正の稽古をした。
少しは先に進んだかも知れない、ここからの稽古は日々遅々と歩みながらの稽古になる。
ネバーギブアップと意気込んだ矢先、若い者のように華麗に動いて見せようとしたら、腰痛に襲われてしまった。
「遊び暮らすには歳を取りすぎた。だが望むことなしに生きるにはまだ若すぎる。ああ、神は、俺の諸々の力をすべて支配しながらも、外の世界に向かっては何ひとつ働きかけることができんのだ」
ファウストの語る、この科白が脳裏を横切った。
明日は楽しい道具と衣装の汚し作業だ。腰痛など糞食らえ!
2009年5月23日土曜日
2009年5月22日金曜日
今回の舞台「赤のファウスト」では実に9曲の合唱と4曲のソロがある。
そりゃあもう、目の色を変えて日々稽古に明け暮れている。
勿論、芝居の方もかなり繊細な抑制を心がけた芝居を稽古している。
何せ相手役がスタンウェイーを使って、生ピアノ演奏なのだから、どたばたしたした子供の芝居は出来ない。
今回の参加者は歌が専門の人や、ダンス、そしてマイムと多種多様な技術を持っているが、僕の大方針として全員同等に「赤のファウスト」劇化する表現者として扱っている。
それが功をそうしたのか、お互いが持つ技術を分ち合いながら、良い座組を形成してきたと思える。
でも実は「ファウスト」が難物なだけに、皆の力を寄せ集めなければ成らないだけなのかも知れないが…。
稽古も追い込みに入り、明日は1回目の通し稽古である。
ゲーテの吐く言葉の力を糧にどこまで完成度を上げられるか?いつものことだが、体力勝負に突入したもよう。
観に来た人は贅沢な舞台を観劇するだろうと、僕は密かに思っている。観ない人は損をする、そんな思いで一杯だ。
あまりに勿体ないから、上演するのを止めようかとも思ったくらいだ。
良い芝居にしたい。強くそう思う。
芝居の中心にある核を、ぎゅっと掴んでねじ伏せたいのだが、ああ、悪魔には既に身を売ってしまっている僕としては、最早神頼みも出来ないといった有様。
と言っても悪魔と戯れるのも飽きてしまったし、これからどうやって作っていこう、ああシアンクレール。
2009年5月18日月曜日
昨日は作業日。衣装、小道具、そして舞台制作に精を出した。この段階に来ると、いよいよという気になる。
今日からは最終段階の稽古に突入。これからが芝居の出来不出来を左右する、細かい動きやリアクションの作り込みになる。勿論スタッフ達も目の色を変えて、芝居にエネルギーを注ぎ込んで来る。
今回、満を持して取り組む「ファウスト」なのだから、行ける所まで行きたい気持ちになる。シンプルで濃密な舞台に成ってくれればと思い、気を新たに引き締めて、これから稽古場に向かう。
そして皆の顔を一人一人見詰めて、エナジーを貰おう。
「赤のファウスト」ー悲劇が唱いながら歩き出したー
贅沢な良い舞台に成るだろう。乞うご期待!
2009年5月11日月曜日
そろそろ本腰を入れなければ。
休み明けの稽古が今日から開始する。
今回は敢えてスローペースを意識してはいたが、やはりじれだしてだしてきた。
そして稽古も中盤にさしかかり、
役者の芝居の出来不出来の不揃いが生まれだしてきたもよう。
それぞれ気が付いていればいいのだが、それも今日の稽古で判明すだろう。そろそろ、芝居に魂を吹き込まなければならない時期に来ているので、芝居の密度と役への集中度が揃っていて貰いたいのが本音なのだが、実際毎回そうはいかないものだ。
明後日の荒通しが終わって、俯いて落ち込む役者の顔が想像できる。
今回の芝居は余計な事は出来ない、意識化された緻密さが要求されるが、まだまだ読みが浅い。とにかく本を読め!昔から先輩の役者に言われ続けたこの言葉が改めて身に染みる。
酒を飲む隙が有ったら本を読め。ここが分かれ目なのだ、昔から酒好きの無頼を気取っている役者でも、やる奴は狡くこっそりやっているんだぜ。これ本当のこと。可哀想だが酒に飲まれる奴は駄目なのだ。
2009年5月4日月曜日
休みの過ごし方。
今日は稽古が休みの日。
僕は休みの日はただ身体を休めることに勤める。
若い人たちは芝居を観に行ったりデートをしたりして気分をリフレッシュでもしているのだろうか? 演出としては気になる所だ。
本当は、本でも読んでおけこの野郎と言いたくなるが、僕も若いときがあった、そんな時は遊び回っていた、女の子と海に泳ぎに行ったりして、次の日真っ黒の日焼け顔を呆れられた記憶がある。
それも今はもう夢の夢、午後4時過ぎ頃にやおら起き出し、風呂に浸かってただぼうっとしている。やらなければならないことは沢山あるのだが手になど付かないほど、頭が動かない。
暫くすると芝居の悪魔が囁き出し。さりげなくメンバーに奮起を促すメールを配信する。そして明日の稽古へ向かっての駄目出しを考え出し、どんな顔つきで登場しようかとか、誰をターゲットにして稽古場を上げていこうか、よからぬ事に頭が働き出す。
本を読んできているやつと、そうでないやつが分かってしまうだけに、休み明けの稽古は疲れる。因みに僕は後者でしたが。
鉛のように鈍く呟き続ける僕に誰か感動を与えてくれ。そして遠くに過ぎ去ったい数々の鮮烈だった記憶を運んできてくれ。この饐えた肉体が少しでもかつての躍動感を味わえるのなら、たとえよからぬ事でも喜んで受け入れるだろう。
来るべき清き新たなる日に乾杯をささげよう。
既に悪魔には身を売っているこの身、明日からは口から日を吹く鬼にでも成るか。しかしそんな元気も出なかったらどうしよう。イライラするのだけはご勘弁したい。
いいかい、稽古以外で何をしているかで役者は決まるんだぜ。
喉から血が出るまで科白を喋っていろよ、明日、声がつぶれているやつがいたら、僕は勇気づけらるのだから。
夕方から衣装のさよが相談しに家に来るが、開口一番お説教で一泣かせして、プランの未熟さ読みの浅さを指摘して困難を与える。明け方5時就寝。
これがぼくの休みの日の過ごし方。
2009年4月25日土曜日
驚きの音楽劇 「赤のファウスト」
まず最初に上がってきた、全体での合唱曲の音取りに、青ざめながら真剣に取り組む男性陣。これぞ必死。
別の所では女性陣が楽しそうに音取りをしていました。
後12曲が控えています。そして来週から立ち稽古に突入。
まるで3000メートル障害競走のような感じの稽古になりそうな予感。
本読みはやっとこさっとこ最後までは行きましたが、まだまだ掘り起こせるので、立ち稽古の中で、どこまで粘れるかが鍵となりそう。
「ファウスト」は読めば読むほど面白さが滲み出て、ゲーテさんはやっぱり凡人ではないことを再認識した本読みでした。
気負わないで、本を真摯に起こして行くだけでも面白くなりそうだが、それが難しい。まあチャレンジ精神有るのみと言った所ですね。
「驚きの音楽劇」と銘打った今回の芝居、本当に観客も僕まで驚きそうです。
僕も含め、期待と不安が入り交じって進む今日の稽古。
2009年4月21日火曜日
一歩前進二歩後退
本読み稽古を行うが、簡単には先に進まない。
それほど難しい本だとは僕は思わないのだが、台本を解釈しながら読むのがあまり慣れていないのか、具体的に台本を読み切れないでいる。
今回のファウストの読み方を皆が慣れるまでには少し時間がいるのだろう。
まず心情的に理解などしようとすると土壺に嵌る類の戯曲だろう。
難しそうに思えて、思わず忘れてはならないのが遊び心とかユーモア、エスプリがなければ超えられない壁に跳ね返されるだけだと思う。
役者はそうした自在さと、ここ一番の集中力が勝負であり、高い壁も簡単に飛び越えてしまえるときもあるものだぜ。
稽古が遅々と進まなくても、僕は嫌いな稽古場でないことだけは確かだ。
こうした多大な無駄に思える時間が必ず何かを生み出すのだから。
苦労は早い内にするに限る。トンネルを抜ければ花の咲き乱れる野原が広がっているものだしね。
人は突然、頭が良くなったり、技術が付くなんてあり得ないのだから、今出来る事をやるのみ。「出来る事しかできない」
と言うことで、こういう日には稽古後酒を飲みに行くに限る。
そして新たな明日に乾杯しよう。
2009年4月18日土曜日
緊張マタンキのテーブル稽古初日
眞藤君が本番が終わりこちらの稽古に駆けつけてくれた。
やはり、新しい顔が加わるとそれだけでガラリと場が変わるものだ。
初めての参加はそれだけで緊張感を持って来てくれるからだろう。
何回もやっている奴は、稽古場へはもっとフレッシュな緊張感を作り出せと言いたい。
和みに来ているのではないのだから、打ち解けるのは芝居が出来るのと平行していけば良いのだと思う。
テーブル稽古の初日は、相も変わらず言う事は同じだ。
テープにでも吹き込んでおこうかな。もういい加減飽きたから。
でも何事も最初が肝心だからなぁ。
考える、そして考える。だからテーブル稽古はとても疲れるのだ。
2009年4月16日木曜日
稽古開始
昨日は神田さんと晃生君と即興演奏に役者が理屈抜きで即興で動いてみた。
僕は何もしなかったのだが有意義な稽古場だった。
演劇用語のキャラクターといわれる物の正体が感じられたのが面白かった。
意識の置き所や、自在さ、そして身体技術、その総体がキャラクターとして現れる。この先、芝居の世界に生きる役の人物を作っていくにあたって、とても参考になったように思えた。
今日は、ニュートラルから始まる即興を基に音楽とのコラボレーションをする予定だが、今回も理屈抜きなので難易度は高い。扱うのは各々の在り方と言う事になる。さてどうなるか?
舞台作りは、皆で一つ一つ積み木を積み上げていくようなもの、この貴重な時間に参加出来なかった者たちにどう伝えていこうか、思案のしどころである。
2009年4月14日火曜日
舞台は全て見えてしまう。
このカナリヤ派の芝居を観て感じたことはあるのだが、上手く言葉に出来ずにいたが、翌日、練馬公会堂へ文化座の「二人の老女」を観にいって、この二つの芝居を見較べて捉えると、はっきりと言葉に出来るように思える。
文化座とは言わずと知れた新劇の老舗、現存する新劇団では一番古いと僕は記憶している。
演劇に対する核に据える物が、受け継がれ脈々と流れている、数少ない劇団である。
時代の流れに軽はずみに乗らずに芝居に向き合っている事が、今回の舞台上演からも、感じられた。一言で言えば作品への情熱とでもいうべき物か…?そして最低限の技術は役者全員持ち合わしている。文化座が60余年その事を拘り続けることは並大抵でないことは、想像するに余りない。
芝居はどのグループでも一生懸命創っているのだ。
当たり前の事を敢えて言うが、演劇に必要なのはその作品に全員が愛情を注ぎ込めるかどうかであり、またそれに値する演目であるかなのである。
カナリヤ派を観てとても鈍い疲れを感じたのは、この事なのかも知れない。
批判を言い出せばきりがないし、面白いことも多々あったが、そんなことはどうでも良いのだ。
センスだけでは芝居は創れないのだ。
かつて同じ言葉を僕も言われてきたが、ようやくその真意が今更ながら腑に落ちた。
そしてもう一つ、自分達へも向けて敢えてはっきりさせておかなければならない事がある。
広い空間で芝居を打つには役者の技術の錬磨が不可欠なのだ。
上昇して金を取れる舞台役者に成りたかったら、身体と声を造りあげなければならない、小劇場出身の役者の陥る最大の問題のような気がする。
昨今、映像を安易に指向する役者が多々見受けられるが、映像は映像で精神の持ちようと違う技術が必要である。
技術がなければ、例え一時期面白がられたとしても、長くは持たない、使い捨ての資本の論理に組み込まれるだけなのだ。
このご時世、もっと大局的に世の中が作りだしていく経済原理と自分との関係を頭を使って考えて欲しいものだ。
カナリヤ派の芝居はやろうとしていることと、それに伴う技術が見合わないと感じた。惜しい。腹立たしいほど惜しい。
まだまだ先に行けるのに簡単に足元をすくわれるな、と言いたい。
舞台は全てが見えてしまう所なのだから…。
2009年3月22日日曜日
次回作「赤のファウスト」本格始動

2009年1月17日土曜日
芝居は終わる、泡沫のアワのように。
2008年12月18日木曜日
星立ての航海

2008年12月12日金曜日
喰う笑う喋る、これ基本なり。

2008年11月30日日曜日
僕が若いときは、こんなに芝居が好きではなかった気がする。

2008年11月24日月曜日
予定通りには進まないのが稽古

2008年11月21日金曜日
ダメ出しは合いも変わらす、「まだ、分かっていないのに表現しようとするな」
「自分が理解するために読め」この二つは定番の駄目だしなので、少し飽きてきたかな。気負うのは分かるが、まず本を理解するための稽古とであることを伝える。役者が理解すると言うことはそんなにカンタンな事ではない、感じっこで読んでも遠回りになるだけだ。
本を読んできている者とあまり読んできていない者との差があり、演劇への向かい方がよく分かり、今までどういう芝居をやって来たかが分かってしまう。
演劇作りなど冒険に旅立つような物だから、もう少し準備をし覚悟を決めてきて貰いたいと正直思う。まあ最初はいつもこんな物か…。
本が読めていない事にびっくり。役者の技術の最たる物は本を読み切る事なのに。
2008年11月17日月曜日
役者紹介Part2

例えば、稽古の休憩中の談笑中でも、おにぎりを片手に、もう片手には台本を放さず広げている。まじめな奴だと普通は思う。しかしよく見ると台本は逆さまなのである。
2008年11月7日金曜日
役者の紹介と愚痴

自問自答
台本を弄ったり、稽古場を想像してみたり、スタッフに作品について語ったり、出演する役者の目付きを観察してみたりと、妄想は日々膨らみ現実感が浮遊しだした。
常に、まず自分自信がこれから作り出そうとする世界のその中で、皆を待っていなければならないと思っているのだが、罠を仕掛けて獲物を待ち受けているような気がしないでもない。
今回は何故か乗客を乗せずに離陸してしまった飛行機なにったような心境がしてならない。
こういう時はしばしば大事なことを見失っているものだ。それもごく当たり前の事をね。
稽古INを前にしてファイティングポーズをとっている自分は、一体何と戦おうとしているのだろう?
どうせ戦うのなら、度し難いほど巨大で人間が生み出す醜悪で哀れな摂理に挑みたい、周りを巻き込まず、こっそりと一人で、だがそこは演劇、やはり皆を巻き込んでしまうのだろうか?悩ましさが募る。
僕の好きな一休宗純の語録に深い言葉があった。
「心配するな。なんとかなる」
僕の知っている演劇の楽しさを忘れないでおこう。
そして、一人では何も出来ないのだという、演劇が持つ宿命を……。
2008年10月16日木曜日
「そまりえ」を観た
作ろうとする世界に親近感を感じるだけに、感想が少し辛口になる事をご理解願いたい。
芝居は生き物、テンポの悪い千秋楽の芝居の問題かも知れないが…。
僕は、開演から10分ほどで芝居を追えなくなった。と、言うより観るべき物がなくなると行った方が正確かもしれない。
やり尽くされた方法やイメージも若い人には新鮮かも知れないが、先達がさんざん実験してきたのだから、カナリア派にはその先を構築していって貰いたい。
世界を反転させるには、冷静な気迫を持ち合わせなければ、劇的な手管になってしまう。
男と女の役割を逆転させるモチーフは観念的過ぎやしないか?
演じる方は具体性の積み重ねていくのだから、観念それ自体は演じられないと思う。
声の出し方の身体の使い方、空間認識、物の扱い、一つ一つが雑になり描こうとする物を壊しているように思える。一言で言えば美しくもなければエロチックでもない。
分かりやすい少女趣味のグロテスク性だけが浮遊しているように思えてしまう。
よしんば軽く今風にでもやろうとしているのならば、それはお門違いだと思う。
もっと時間を掛けて台本を練って貰いたい、センスだけでは芝居は作れないのだから。
それから、役者に遠慮しないで演出して貰いたい。これは願望。
ザムザの空間が狭いのだから、もっと丁寧に作らなければ、雑さが感じられ手抜きに思えてしまう。
観客にとってはトラムでやっても円形でやっても、芝居は芝居なのだから。
今回の芝居が、かみ合わずテンポが悪いのは、根源的なアンサンブルの問題かも知れない。思いが揃っていない、そう言っちゃおしまいかな。
言いたいことを言っているが、次回を期待したい劇団であることには変わりはない。
見事に裏切られた
ジャニス・ジョプリンの死ね一ヶ月前からを描いた作品だ。
観終わった後、正直「この野郎」と憤懣やるかたない思いに包まれていた。
芝居のどうこうではない、ジャニスの最後のLP「パール」を買って聞いていたその当時が過ぎってしまったからだ。
ジャニス役をオーデションで公募したと聞いていたので、よせばいいのにと思っていた僕を、ジャニス役の武井翔子嬢は見事裏切ってくれた。
後で聞いたら彼女は、声楽を学んでいたと言うから二度びっくり。
ジャニスの歌を心を振り絞りながら見事熱唱していた。
ジャニスが好きな連中が集まって、芝居仕立てのライブ公演と言った感じだが、「好きは物の上手なり」これ表現の確信でもある。その事に改めて気づかされた。
ついぞここの所そう言う公演に立ち会っていなかった。
当たり前のことから始まり、何となく出来上がってしまった制度に流されず、果敢に好きな精神を再現しようと、一丸となって作りだした作品なのだから、この公演は軽々しく半端な批判など出来やしない。
昼間見た公演とは真逆の方向性なのだ。
生き方なのか、世代なのか、僕には分からないが、こうした精神性へのこだわりは少しでも長く、まだまだ荒削りでも良いから持続させて貰いたい。
彼らは、多分観た客に言われているだろうが、僕は敢えて反対の事を言いたい「芝居など上手くなる必要はない」と。
昼間の新大久保
感想は未成熟とか未完成、中途半端という言葉がぴったりだろう。少し期待して行っただけに落胆した思いだ。
舞台作りは、良いときもあれば悪いときもあるのは重々承知で敢えて言う。
パーフォーマンス系の公演なのだが、イメージの喚起力が弱い。物の使い方のアイデアはふんだんに有るのだが、各場面の方向性やイメージを出演者が共有していないように思えた。いや、演出の強い意志とかテーマが希薄なだけなのかも知れない。
言葉の観念はあるのかも知れないが…。 エスプリが伝わらない。
だからなのか、どこかで見た事のあるような亜流の表現をふんだんにコラージュしていたように思えてならない。
ショーとして見ても、金を労力と人材を掛けているのに、それ以上の舞台のダイナミズムが生まれてこない。CGを駆使した今時のハリウッド映画でも見ていた方がよほど楽しませてくれるし、安い。
やろうとしている事やその方法論は面白そうなのだが、言うや安しなのだと改めて思う次第だ。時間が必要なのだ。練って共有してまとめ上げる、その時間と労力が足りないのかもしれない。舞台に置かれたオブジェだけが目立って存在していた。
この事は肝に銘じよう。いくら才能豊かな個人がいても、この主体を促して行く事は並大抵の事ではないし、まして歌ったり踊ったりすれば、表現者の技術に置き換わって行かなければならないのだから、成熟していく時間が掛かる。
舞台前面にクリア球のイルミネーションを並べないでくれ、目が痛いからね。
アレがある事で空間のイメージが変わらなくなるよ。
にしても使いづらいあのグローブ座をよく選んだものだ。半円のそびえ立つ客席に対して一方舞台は観客に不親切になってしまう。
あの劇場は目線が嫌でも上がってしまうのだから、照明の吊り位置が悪すぎるため演者の目線が影になって見えない。
もっとシンプルに、気負わずはっきりしている事を精密に積み重ねて、舞台に乗せていった方が迫力と豊かさが生まれるのではないか?
このブログを読まれた方に、一度、フランク・ハーバート原作 デイヴィッド・リンチ 監督の「砂の惑星」を観ることをおすすめする。















