2009年4月25日土曜日

驚きの音楽劇 「赤のファウスト」

妙に真剣な男性陣



まず最初に上がってきた、全体での合唱曲の音取りに、青ざめながら真剣に取り組む男性陣。これぞ必死。

 

別の所では女性陣が楽しそうに音取りをしていました。

 

後12曲が控えています。そして来週から立ち稽古に突入。

 

まるで3000メートル障害競走のような感じの稽古になりそうな予感。

 

本読みはやっとこさっとこ最後までは行きましたが、まだまだ掘り起こせるので、立ち稽古の中で、どこまで粘れるかが鍵となりそう。

 

「ファウスト」は読めば読むほど面白さが滲み出て、ゲーテさんはやっぱり凡人ではないことを再認識した本読みでした。

 

気負わないで、本を真摯に起こして行くだけでも面白くなりそうだが、それが難しい。まあチャレンジ精神有るのみと言った所ですね。

 

「驚きの音楽劇」と銘打った今回の芝居、本当に観客も僕まで驚きそうです。

僕も含め、期待と不安が入り交じって進む今日の稽古。

 

2009年4月21日火曜日

一歩前進二歩後退

テーブル稽古3日目。

本読み稽古を行うが、簡単には先に進まない。

それほど難しい本だとは僕は思わないのだが、台本を解釈しながら読むのがあまり慣れていないのか、具体的に台本を読み切れないでいる。
今回のファウストの読み方を皆が慣れるまでには少し時間がいるのだろう。
まず心情的に理解などしようとすると土壺に嵌る類の戯曲だろう。

難しそうに思えて、思わず忘れてはならないのが遊び心とかユーモア、エスプリがなければ超えられない壁に跳ね返されるだけだと思う。
役者はそうした自在さと、ここ一番の集中力が勝負であり、高い壁も簡単に飛び越えてしまえるときもあるものだぜ。

稽古が遅々と進まなくても、僕は嫌いな稽古場でないことだけは確かだ。
こうした多大な無駄に思える時間が必ず何かを生み出すのだから。

苦労は早い内にするに限る。トンネルを抜ければ花の咲き乱れる野原が広がっているものだしね。
人は突然、頭が良くなったり、技術が付くなんてあり得ないのだから、今出来る事をやるのみ。「出来る事しかできない」

と言うことで、こういう日には稽古後酒を飲みに行くに限る。
そして新たな明日に乾杯しよう。

  

2009年4月18日土曜日

緊張マタンキのテーブル稽古初日

稽古スケジュールを少し前倒しをして、昨日からテーブル稽古を始めた。
 
眞藤君が本番が終わりこちらの稽古に駆けつけてくれた。
やはり、新しい顔が加わるとそれだけでガラリと場が変わるものだ。
初めての参加はそれだけで緊張感を持って来てくれるからだろう。
何回もやっている奴は、稽古場へはもっとフレッシュな緊張感を作り出せと言いたい。
和みに来ているのではないのだから、打ち解けるのは芝居が出来るのと平行していけば良いのだと思う。

テーブル稽古の初日は、相も変わらず言う事は同じだ。
テープにでも吹き込んでおこうかな。もういい加減飽きたから。
でも何事も最初が肝心だからなぁ。

考える、そして考える。だからテーブル稽古はとても疲れるのだ。

 

2009年4月16日木曜日

稽古開始

新作「赤のファウスト」の稽古が始まった。

昨日は神田さんと晃生君と即興演奏に役者が理屈抜きで即興で動いてみた。
僕は何もしなかったのだが有意義な稽古場だった。

演劇用語のキャラクターといわれる物の正体が感じられたのが面白かった。
意識の置き所や、自在さ、そして身体技術、その総体がキャラクターとして現れる。この先、芝居の世界に生きる役の人物を作っていくにあたって、とても参考になったように思えた。


今日は、ニュートラルから始まる即興を基に音楽とのコラボレーションをする予定だが、今回も理屈抜きなので難易度は高い。扱うのは各々の在り方と言う事になる。さてどうなるか?


舞台作りは、皆で一つ一つ積み木を積み上げていくようなもの、この貴重な時間に参加出来なかった者たちにどう伝えていこうか、思案のしどころである。

 

2009年4月14日火曜日

舞台は全て見えてしまう。

初夏を思わす陽気に誘われて、シアタートラムへカナリヤ派の芝居を観に行った。この所、構成台本の仕上げでパソコンに向かいっぱなしだったので、人混みに出て行くことが久しかった。
 


このカナリヤ派の芝居を観て感じたことはあるのだが、上手く言葉に出来ずにいたが、翌日、練馬公会堂へ文化座の「二人の老女」を観にいって、この二つの芝居を見較べて捉えると、はっきりと言葉に出来るように思える。

 
文化座とは言わずと知れた新劇の老舗、現存する新劇団では一番古いと僕は記憶している。
演劇に対する核に据える物が、受け継がれ脈々と流れている、数少ない劇団である。
時代の流れに軽はずみに乗らずに芝居に向き合っている事が、今回の舞台上演からも、感じられた。一言で言えば作品への情熱とでもいうべき物か…?そして最低限の技術は役者全員持ち合わしている。文化座が60余年その事を拘り続けることは並大抵でないことは、想像するに余りない。


芝居はどのグループでも一生懸命創っているのだ。
当たり前の事を敢えて言うが、演劇に必要なのはその作品に全員が愛情を注ぎ込めるかどうかであり、またそれに値する演目であるかなのである。


カナリヤ派を観てとても鈍い疲れを感じたのは、この事なのかも知れない。
批判を言い出せばきりがないし、面白いことも多々あったが、そんなことはどうでも良いのだ。
センスだけでは芝居は創れないのだ。
かつて同じ言葉を僕も言われてきたが、ようやくその真意が今更ながら腑に落ちた。


そしてもう一つ、自分達へも向けて敢えてはっきりさせておかなければならない事がある。
広い空間で芝居を打つには役者の技術の錬磨が不可欠なのだ。
上昇して金を取れる舞台役者に成りたかったら、身体と声を造りあげなければならない、小劇場出身の役者の陥る最大の問題のような気がする。


昨今、映像を安易に指向する役者が多々見受けられるが、映像は映像で精神の持ちようと違う技術が必要である。
技術がなければ、例え一時期面白がられたとしても、長くは持たない、使い捨ての資本の論理に組み込まれるだけなのだ。
このご時世、もっと大局的に世の中が作りだしていく経済原理と自分との関係を頭を使って考えて欲しいものだ。


カナリヤ派の芝居はやろうとしていることと、それに伴う技術が見合わないと感じた。惜しい。腹立たしいほど惜しい。
まだまだ先に行けるのに簡単に足元をすくわれるな、と言いたい。
舞台は全てが見えてしまう所なのだから…。

  

2009年3月22日日曜日

次回作「赤のファウスト」本格始動


「赤のファウスト」出演者勢揃い写真


6月4日から、せんがわ劇場で上演する「赤のファウスト」の宣材用の写真撮影をしました。
 
 
今回は僕にとっては最強の座組だと思っています。とにかく新鮮な勢いがある役者たちです。

右から蜂谷眞未、薬師寺尚子(サルとピストル)、土田有希、谷修、手塚謹弥、西郷まどか、菊池豪、森勢ちひろ、眞藤ヒロシ、五十嵐佑介(劇団汎マイム工房)、成田 明加。
 
この他にPiano演奏・作曲に神田晋一郎氏を迎え、お馴染みの小田晃生君とタックを組んでの生演奏チーム。

それから天使のコーラスで参加する諸橋佳耶子、志賀優子さんで総勢15名で挑む、ゲーテ作、ファウスト第一部。題して「赤のファウスト」

 

現在、準備の佳境です。公演はほぼこの段階で方向性が決まってしまうと僕は思っている。だから手を抜けられない。

やりたいことが、沢山脳裏を過ぎるが、実現できることはその内の少しだけ。

驚きの音楽劇と銘打って、持てる想像力を振り絞って行う稽古はいとも楽しい。
  

まてよ、まだ構成台本の作業中だった。

どういう作品になるか、乞うご期待。



2009年1月17日土曜日

芝居は終わる、泡沫のアワのように。


「三日月の セレナーデ」キャスト&スタッフ記念撮影
 
 
一つの舞台を終えた。
 
僕は芝居を創り上演する道のりは、船が大海原を航海するようなモノに思っているが、今回の船出はアドベンチャーその物だった。
 
荒れ狂う海を一丸となって進むその様を振り返ると「なせば成る」の一言が残る。一人一人が何を経験したかは計り知れないが、今回の公演は、やろうと思っても出来る経験でないことだけは確かだと思える。
 
本番に入り、芝居は僕の手を離れ成長して行った。これも皆で共に苦労したご褒美なのかも知れないが、労多くしなければ、良い芝居が生まれないなんて演劇の不文律は殺生だ。
次は楽に良い芝居が作れない物か考えよう。と、いつも思っている。
 
こんな芝居作りばかりしていたら、僕の残り人生で後十本くらいしか出来ない気がする。体力は限界が有るからね。ま、それでも手を抜いて後悔するより良いかと思う。
 
それから小町モノはやはり怖い、小野小町が歴史上から姿を消した謎は、どうやら度し難いものだった気がして成らない。何せ今回スタッフが二人途中で消えたのだから。せっせと盛り塩をしたり神社にいってお賽銭をあげお祓いをしたのに、あまり効果はなかった。やはり小町恐るべし。
でも、物の哀れと切なさは芝居にしっかり授けてくれた。
 
蒔いた種がいつか綿帽子を付けてどこかに飛んでいって、やがて実になることを信じて、返す刀で次に向かおう。
次回の「赤のファウスト」は一体どうなるのか? また一から創ると思うと、ふとため息一つ。
 
 
 観客の皆さん長い芝居を最後まで見て貰い感謝です。
 そしてスタッフ・キャストの諸君お疲れ様でした。
 
 

2008年12月18日木曜日

星立ての航海


  三日月の小町役の中村真季子
 
 
今回初お目見えの真季子嬢、なかなかどうして肝の据わった役者だ。
舞台で気をはける女優なのだが、壺に入ったときと、溢れるときがまだ交互である。
でも、芝居に対する誠実さは素敵だ。
彼女の役所はあまりにも良い役なのでこんな所で言いたくない。
緻密に端正に作り上げられれば、役所と相まって、乞うご期待といったところだ。
 
 
稽古は第二段階に突入した。
芝居が動き出すのはここからだが、皆付いてこれるか体調管理も含め心配な所。
これからがネバーギブアップで、本当の役者の力量が問われてしまうのかも知れない。
 
もっと先へと稽古場は動き出した。
昔の船乗りが、山を目印に現在地を計ることを「山立て」と呼ぶが、山が見えなくなる大海原のその先は、星を頼りに今を知る。これを「星立て」と呼ぶ。
稽古場は未踏の地を求めて「星立て」で進むのである。
まさにお先真っ暗のわくわくする冒険である。
 
芝居作りなど行き先など決まっていない、「彼の地」を目指しているだけだ。
中村真季子、冒険好きと見た。
 
 

2008年12月12日金曜日

喰う笑う喋る、これ基本なり。


焼き肉を食べる役者
 
芝居の稽古の一コマではない。稽古場の近くの焼き肉屋へ皆で行った。この焼き肉は行事は恒例になりつつある。
稽古がとても楽しいときもあるのだが、そうでないときもある。そう言うときは焼き肉が一番。
 
それにしてもよく食べるものだ、最近僕は食欲旺盛の若者が食べているのを見ているだけでお腹がいっぱいになってしまう。
 
只今、稽古場は意外に順調に進んでいるようだが、見えない岐路に差し当たっているように思える。出来れば僕も今だ知らないとんでもないところへ進みたいものだ。
てっことは今が最初の正念場か?
 
僕の風邪も良くなってきたことだし、明日から気合いを入れ直そうと思っている。
一日一つは発見をしていきたいものだ。
 
 

2008年11月30日日曜日

僕が若いときは、こんなに芝居が好きではなかった気がする。


    
    稽古は楽し・・キチ役の成田明加


「三日月のセレナーデ」の立ち稽古に入って3日目になる。そして今日は全日稽古。

画像の役者は劇団レッド・フェースの成田明加。
 

前回の「新譚サロメ」に引き続いての出演だ。この二回目が怖い。芝居は概ね二という数が曲者らしい、どうも新鮮さが薄れるのだろうか、求めてしまう物が増すのかは分からないが、僕はその先の、先が見たくなってしまう性分なのだから、そうした僕の我が儘を免じてちょ。
 

彼女の演じるキチという役はこの芝居の世界の要であり、簡単に出来てはまずい役なのだ。要するに、俗に言う良い役と言う奴だ。


キチは、河原に住み孤独なのだが屈託が無く、いじましい飴売り女と言った役所。

とうてい今の時勢からは想像も出来ない生き方をしている女なのだ。

悩み苦しまなければ演じられない、いや演じてはいけない役なのかもしれないな。

 
「役者は文化を演じるものだ」と誰かが言っていたが、まさにその通りだとこの芝居を稽古しながらつくづく思う。自分達が知らない世界にどれだけにじり寄って行けるか、先は思いやられるが、出来ることしかできないのも事実である。
一歩一歩積み重ねて作る芝居は、僕は楽しい。そして一歩一歩進んでいく若い役者とする稽古はなお楽しい。

 
しかし待てよ。この明加という女優、一挙にワープしてしまうかも知れない、そんな役者かも知れないぞ…。

 

 

2008年11月24日月曜日

予定通りには進まないのが稽古



          和気藹々風の稽古風
 
本日はテーブル稽古の最後の日、ポカポカ陽気のせいか皆の緊張も取れ、
台本の掘り起こし作業も少しは進んだが、でも予定の半分も行っていない。
まあいいか。上手く立てなかったら、また読みに戻ればいいだけのこと。
 
本当に荒れ地を開墾するのに似ている、後は種をまいて水をやって、刈り取りと言った段取りで芝居は出来上がる。ところがそうはいかないのが芝居作り。
虫も沸けば、雀もチュンチュンなのだ。
 
新しい参加者はどこか戸惑いを見せている。それも追々こなれてくるだろう。
駄目出しの言語には慣れが必要なのだ。自分では居たってオーソドックスに進めている気で入るのだが、昨今色々な作り方があるようだ。ワークショップを取り入れてたりね。
 
ここで一つ疑問が、よくプレ稽古でワークショップぽい事をするのだが、本稽古と何が違うのだろう?上手く行かなかった話は良く聞くのだが…。
今回は役者達だけでプレ稽古をしてくれたが、これが正解かも知れないと思う。
 
台本を起こす作業はとても大事なのだが、今回はあまりスタッフが参加していないのが心配で成らない。大丈夫かい台本そんなに読めるのかいな。
まあいいか。どうせ慌てるのは本人達だし。
 
芝居を甘く見ているとしっぺ返しが来るのは、演劇の不文律であるからにして、結局時間に追われててんやわんやする羽目になるのは目に見えている。
それも、祭りのような物だし、僕は粛々と僕の作業をして行くのみなのである。
科白は覚えるのではなく入れるもの、体にちゃんと入れて来るんだぞ。
稽古が楽しくなるからね。とか何とか…。
 
 

2008年11月21日金曜日

稽古が始いよいよ始まりました。顔合わせの後、冒頭から本読みをしました。
ダメ出しは合いも変わらす、「まだ、分かっていないのに表現しようとするな」
「自分が理解するために読め」この二つは定番の駄目だしなので、少し飽きてきたかな。気負うのは分かるが、まず本を理解するための稽古とであることを伝える。役者が理解すると言うことはそんなにカンタンな事ではない、感じっこで読んでも遠回りになるだけだ。
 
本を読んできている者とあまり読んできていない者との差があり、演劇への向かい方がよく分かり、今までどういう芝居をやって来たかが分かってしまう。
演劇作りなど冒険に旅立つような物だから、もう少し準備をし覚悟を決めてきて貰いたいと正直思う。まあ最初はいつもこんな物か…。
本が読めていない事にびっくり。役者の技術の最たる物は本を読み切る事なのに。

 

2008年11月17日月曜日

役者紹介Part2


豚の尻尾」原作・百年の孤独のバビロニアを演じた谷修
 
上演台本も出来、稽古前に熱も出し切った事だしウンプテンプ、カンパニーの代表・谷修を紹介しよう。

二文字の谷修くん、並びの悪い名前で本人も気にしている様子。しかしこの並びの悪さが実に本人を言い表しているように思える。まじめさとといい加減が並び悪く共存しているのである。

 
例えば、稽古の休憩中の談笑中でも、おにぎりを片手に、もう片手には台本を放さず広げている。まじめな奴だと普通は思う。しかしよく見ると台本は逆さまなのである。
 

まじめといい加減さ、純粋さと邪悪さ、素直さとずるさ、押し出しの強引さと、突っ込まれた時の弱さ、実に人間として魅力的、いや違った役者として魅力的なのである。
 

持って生まれた清濁がコントロールされ演じる役の幅を大きく描けていく事を切に願望してやまない。見事に客を裏切る、そう言った魅力と可笑しさを兼ね備えているのかも知れない。
 

彼の今回の役はとても難しい、日本が近代国家に成り上がろうとした時代、名字を持たない男で山で瀬振り暮らしをし、幼い妹(お甲)を客に売り、自分だけ這い上がろうとするのだが、結局、帝都の河原で体を売る妹と再会をしてしまう。替え玉という役だ。
 

代表にふさわしいく、身を呈して役作りに苦労するだろう。谷君とは付き合いも長いので、ここに書けない事は無数にあるが、言いたい気持ちを抑えてここは一つ我慢をしよう。「三日月のセレナーデ」では一皮むけた期待を裏切らない芝居をしてくれるか、見事裏切られるか、そのスリリングさも谷修ファンには堪らないだろう。
 

寝る隙も惜しんで?動き回っている谷修は、それだけで役者として認めざる負えない。舞台役者は芝居だけやっていても芝居を知ることはできないのだから!
 
 僭越ながら谷くんにひとつ要望する。役者としてスケベなのは良いのだが、もう少し上手く使いこなせ!

次回からは稽古場が動き出すので、稽古場日記のような物を書こうと思う。
愚痴にならなければ良いのだが……。
   

2008年11月7日金曜日

役者の紹介と愚痴


前回公演「新譚サロメ」サキを演じた蜂谷眞未
 
芝居を観に行く時間が無いので、折角だからウンプテンプの役者を紹介しよう。
 
上の画像の芝居の彼女の役柄は、因習を受け入れ自らの宿命に翻弄されていく島の女の役だった。
今回の「三日月のセレナーデ」では真逆にしようと思っている。
天命に抗う女、それも宮家の令嬢と言った役所である。
『逆もまた真なり』とは思うのだが、演じる方は大変だ。1からコツコツと役を作らなければならないのだから。
 
人ごとのような言い方だが、正直どんな人物になっていくか楽しみである。
まあ、スケールの大きさは並外れている女優で有ることは確かなのだが、今だ僕はどこまで大きいのか分かっていない。
分かっていることは芝居が心底好きで、体力が今の僕よりもあると言うこと。それだけ分かれば十分だ。
役者にうまさなどいらない、役を正直に生きて貰いたい。彼女には観客を裏切り心を抉るそんな芝居を切に願う。
珍し物好きの自分としては、今時珍しいそんな蜂谷という女優には興味を覚えている事は確かだ。
 
おっと、1からコツコツは僕の役回りもそうだった。ああめんどくさい。
また、違う未踏の山を登らなければならないのかと思っただけで、げんなりする。
八合目当たりまでハイウェーでヒューと行けたらなぁと、楽を考えたくもなる。
でも、みんなで山あり谷ありでエンコラエンコラしながら芝居を作るのが楽しいのだよ、と何とか思い込もう。
  
今回稽古場で彼女に言うダメ出しはもうすでに決めてある。(いつものこと)言う機会があれば良いのだが…、谷に落ちてしまったときに言うのだけは止めておこう。
 
次回は代表の谷修を紹介せねば、奴はきっと拗ねる。
…。

自問自答


当たり前だが、稽古INまで二週間を切って作品の事を毎日考えている。
台本を弄ったり、稽古場を想像してみたり、スタッフに作品について語ったり、出演する役者の目付きを観察してみたりと、妄想は日々膨らみ現実感が浮遊しだした。

常に、まず自分自信がこれから作り出そうとする世界のその中で、皆を待っていなければならないと思っているのだが、罠を仕掛けて獲物を待ち受けているような気がしないでもない。

今回は何故か乗客を乗せずに離陸してしまった飛行機なにったような心境がしてならない。
こういう時はしばしば大事なことを見失っているものだ。それもごく当たり前の事をね。

稽古INを前にしてファイティングポーズをとっている自分は、一体何と戦おうとしているのだろう?
どうせ戦うのなら、度し難いほど巨大で人間が生み出す醜悪で哀れな摂理に挑みたい、周りを巻き込まず、こっそりと一人で、だがそこは演劇、やはり皆を巻き込んでしまうのだろうか?悩ましさが募る。

僕の好きな一休宗純の語録に深い言葉があった。
「心配するな。なんとかなる」

僕の知っている演劇の楽しさを忘れないでおこう。
そして、一人では何も出来ないのだという、演劇が持つ宿命を……。

2008年10月16日木曜日

「そまりえ」を観た

黒色綺譚カナリア派の「そまりえ」の千秋楽を阿佐ヶ谷のザムザまで、息を切らせてチャリンコを漕いで観に行った。
作ろうとする世界に親近感を感じるだけに、感想が少し辛口になる事をご理解願いたい。
芝居は生き物、テンポの悪い千秋楽の芝居の問題かも知れないが…。
僕は、開演から10分ほどで芝居を追えなくなった。と、言うより観るべき物がなくなると行った方が正確かもしれない。

やり尽くされた方法やイメージも若い人には新鮮かも知れないが、先達がさんざん実験してきたのだから、カナリア派にはその先を構築していって貰いたい。
世界を反転させるには、冷静な気迫を持ち合わせなければ、劇的な手管になってしまう。

男と女の役割を逆転させるモチーフは観念的過ぎやしないか?
演じる方は具体性の積み重ねていくのだから、観念それ自体は演じられないと思う。
声の出し方の身体の使い方、空間認識、物の扱い、一つ一つが雑になり描こうとする物を壊しているように思える。一言で言えば美しくもなければエロチックでもない。
分かりやすい少女趣味のグロテスク性だけが浮遊しているように思えてしまう。
よしんば軽く今風にでもやろうとしているのならば、それはお門違いだと思う。

もっと時間を掛けて台本を練って貰いたい、センスだけでは芝居は作れないのだから。
それから、役者に遠慮しないで演出して貰いたい。これは願望。

ザムザの空間が狭いのだから、もっと丁寧に作らなければ、雑さが感じられ手抜きに思えてしまう。
観客にとってはトラムでやっても円形でやっても、芝居は芝居なのだから。
今回の芝居が、かみ合わずテンポが悪いのは、根源的なアンサンブルの問題かも知れない。思いが揃っていない、そう言っちゃおしまいかな。

言いたいことを言っているが、次回を期待したい劇団であることには変わりはない。

見事に裏切られた

グローブ座を観た夜に、新宿のタイニアリスに向かう。『JANIS -Love is like a Ball and Chain-』を観にだ。さすがに芝居の梯子はきつい。

ジャニス・ジョプリンの死ね一ヶ月前からを描いた作品だ。
観終わった後、正直「この野郎」と憤懣やるかたない思いに包まれていた。
芝居のどうこうではない、ジャニスの最後のLP「パール」を買って聞いていたその当時が過ぎってしまったからだ。

ジャニス役をオーデションで公募したと聞いていたので、よせばいいのにと思っていた僕を、ジャニス役の武井翔子嬢は見事裏切ってくれた。
後で聞いたら彼女は、声楽を学んでいたと言うから二度びっくり。
ジャニスの歌を心を振り絞りながら見事熱唱していた。

ジャニスが好きな連中が集まって、芝居仕立てのライブ公演と言った感じだが、「好きは物の上手なり」これ表現の確信でもある。その事に改めて気づかされた。
ついぞここの所そう言う公演に立ち会っていなかった。
当たり前のことから始まり、何となく出来上がってしまった制度に流されず、果敢に好きな精神を再現しようと、一丸となって作りだした作品なのだから、この公演は軽々しく半端な批判など出来やしない。

昼間見た公演とは真逆の方向性なのだ。
生き方なのか、世代なのか、僕には分からないが、こうした精神性へのこだわりは少しでも長く、まだまだ荒削りでも良いから持続させて貰いたい。

彼らは、多分観た客に言われているだろうが、僕は敢えて反対の事を言いたい「芝居など上手くなる必要はない」と。

昼間の新大久保

グローブ座へ千秋楽のパパ・タラフマラの「ガリバー&スウィフト-」を慌てて観に行った。
感想は未成熟とか未完成、中途半端という言葉がぴったりだろう。少し期待して行っただけに落胆した思いだ。
舞台作りは、良いときもあれば悪いときもあるのは重々承知で敢えて言う。

パーフォーマンス系の公演なのだが、イメージの喚起力が弱い。物の使い方のアイデアはふんだんに有るのだが、各場面の方向性やイメージを出演者が共有していないように思えた。いや、演出の強い意志とかテーマが希薄なだけなのかも知れない。

言葉の観念はあるのかも知れないが…。 エスプリが伝わらない。
だからなのか、どこかで見た事のあるような亜流の表現をふんだんにコラージュしていたように思えてならない。

ショーとして見ても、金を労力と人材を掛けているのに、それ以上の舞台のダイナミズムが生まれてこない。CGを駆使した今時のハリウッド映画でも見ていた方がよほど楽しませてくれるし、安い。

やろうとしている事やその方法論は面白そうなのだが、言うや安しなのだと改めて思う次第だ。時間が必要なのだ。練って共有してまとめ上げる、その時間と労力が足りないのかもしれない。舞台に置かれたオブジェだけが目立って存在していた。

この事は肝に銘じよう。いくら才能豊かな個人がいても、この主体を促して行く事は並大抵の事ではないし、まして歌ったり踊ったりすれば、表現者の技術に置き換わって行かなければならないのだから、成熟していく時間が掛かる。
舞台前面にクリア球のイルミネーションを並べないでくれ、目が痛いからね。
アレがある事で空間のイメージが変わらなくなるよ。

にしても使いづらいあのグローブ座をよく選んだものだ。半円のそびえ立つ客席に対して一方舞台は観客に不親切になってしまう。
あの劇場は目線が嫌でも上がってしまうのだから、照明の吊り位置が悪すぎるため演者の目線が影になって見えない。

もっとシンプルに、気負わずはっきりしている事を精密に積み重ねて、舞台に乗せていった方が迫力と豊かさが生まれるのではないか?

このブログを読まれた方に、一度、フランク・ハーバート原作 デイヴィッド・リンチ 監督の「砂の惑星」を観ることをおすすめする。

2008年9月23日火曜日

大忙しで駆け回る


今日はチラシの裏に載せる役者の集合写真を撮ってきた。
場所は石神井にはあ某湿地帯、地元に住んでないとまず知らないだろう所。
突然へんてこな一群が押し寄せたので、蚊がブンブンと若い順から刺さしていた。

僕は、蚊除けを買いに行ったり、駅まで迎えに行ったり、予備のカメラで撮影したりと駆けずり回っていた。

日没と競争のように鬱蒼とした沼縁で、レトロ調の衣装を身に付け楽器を手にしての撮影だった。
テーマは旅芸人が道に迷って沼縁で心細く休んで、いつしか楽器を弾き始める、と言ったもの、テーマと言うより物語になってしまったか。
もうここで即興で本番を初めても楽しそうだった。

2008年9月14日日曜日

シアターΧに懐かしい人達

両国にシアターΧに足を運んだ。

遠藤拓郎氏の「小栗判官」を観に行った、遠藤さんとは以前、演出を受けた事もあるし麻雀も良くやってたのに。挨拶をしたのだがどうも僕を認識をしていない感じだった。
後で聞いたのだが、僕が来ていたとしったら遠藤さんは驚いていたとか。彼の中では僕は25年前の青年のままなのかも知れない。

でもその方が素敵なので、いつまでもそう思っていて貰いたい。僕の心持ちは若いときと何も変わっちゃあいないのだから。

舞踏を多用した「小栗判官」なのだが、遠藤さんも変わっちゃあいないので少し嬉しくなった。でも今観ると人の世の深みを感じてしまうのは何故なのだろう。遠藤さんの作る世界は中世を題材にした物が多いいが、実は近代のその先を見詰めているのかも知れないと。
孫ぐらい若い人達と芝居を作る彼は、僕が若いときと変わりないと、舞台を観てそう思えた。

話せば長くなるので、芝居の感想は後で直接みんなと話したい。

2008年9月2日火曜日

しばらく話が盛りあがる

あの懐かしい王子小劇場まで、競泳水着なるところの「真剣恋愛」なる芝居を観てしまった。王子小劇場はUMP TEMPの旗揚げの時の劇場だ。

その時の公演は客が来すぎて詰めに詰めて芝居をやった。そして劇場の人に怒られた。感謝されるのだとばかり思っていたから、何で怒られたのか分からず呆然とした記憶がある。
小劇場には20年位遠のいていたから、世の移り変わりについて行けてない、浦島太郎状態だったんだろう僕はきっと? ?そんなあまり良い印象がないので、芝居の感想も変な事を書きそうで怖い。

観劇後、観てはならない物を観てしまった物同士で酒を飲み、観てはならない物の事に話が弾んだ。あの芝居を観たのだから小劇場の芝居はどんな芝居でも許せる思いだ。少し心が広くなった気がする。感謝 

最後に劇団「競泳水着」のロゴに描かれている水着の胸の谷間は、僕のセクシャリティーとは少しずれている。にしても、ここの作・演出家さん、あんたセンスむき出しで潔し。

2008年8月23日土曜日

観劇は忙しすぎる

今日は田町まで劇団レッド・フェイスの「ブルーライオン」を見せて貰った。
次回作に一緒に芝居をする女優が二人出演していたので観に行った。

稽古場を改造した劇場だと言ってたがそう悪くわない。芝居の物語は上手く伝わらなかった。気が付いたのだが僕はあまり台詞をまじめに聞いていないのかも知れない。だから話しについて行けない。
僕が劇場の中で信じられるストーリーって奴は、先ずはアクシデント。それと役者と役者の間に発生する言葉にならない関係性。
やはり、その先の関係の展開を観たい知りたい感じたい。
言葉は嘘を付く。
役者はもっと大嘘つきだ、台本読んで最後まで知ってやっているのだから。
芝居だからと言って、知らない振りを客にさせないでくれ。

ギャグネタもふんだんにあったが、前列の一団が大笑いしていたので、僕は繁々彼らを観察していた気がする。

僕は芝居で何を見ているのだろう、上を見ては灯体の数を数えてたり、舞台の塗り忘れの白身を調べてたり、役者の履き物をチェックしてたりと、そりゃもう忙しいもんだ。

2008年8月12日火曜日

何とも懐かしい芝居

本多劇場へと流山児事務所の「由井正雪」を観に足を運ぶ。
本当に久日ぶりの流山児の芝居だ。
かつて2度ばかり観た記憶があるが、どんな内容の芝居か定かではないほど昔だ。
流山児の芝居は本多劇場の間口ではスカスカになるだろうなと思っていたら、その通りだった。
歌や群で踊ったり賑やかに空間を埋めているのだが、どうも内容が満ちていない。
色々演出の手管は使っているのだが、とってつけたような物で、あまり面白みは感じなかった。また直ぐに忘れてしまうだろうな。

それにしても以前勢いがあって好きだった俳優が出ていたのだが、芝居の仕方が叔父さんになっていてびっくり、まあそれだけ時間が経ったという事なのか?

最近、僕は昨日病に掛かってしまったようだ。何十年前の事が昨日の出来事のように思えてしまう。あまり良い感じではない。

2008年8月9日土曜日

チンチン電車に揺られて

早稲田から都電に乗り、昔の仲間がやる芝居を観る。
寸劇は都電の中で行われた。役者も揺れながら、観客(乗客)も揺れながら早稲田から三ノ輪まで空間と時間を共有する。その事がすでに演劇的で面白かった、内容は東京の大空襲の話なのだが、内容のメッセージがダイレクトすぎて、都電ののほほんとした雰囲気と上手くかみ合わない感がした。

細かい事を言えば色々あるかも知れないが、都電の窓越しに観る外の景色と、話柄をダブらせると、いやでも想像力を刺激された事は確かだ。

2008年7月17日木曜日

また一つ重くなった

本日はチラシを担いで、ミーティングに向かう。だが女性陣は誰も来ず、何だむさ苦しい奴ばかりで、話題もむさ苦しい、谷君もっとぽんぽん喋ってくれ。暑いんだから。そこへ新参加の岡部君突如現る。いいねやっぱり若い男は新鮮だね。しかし、レッド・ツェップリンやジャニスの話を揚々とするな、生まれてもいなかったくせに。若いあいつらから観ると僕はどんな存在なんだろう?大いなる疑問だ。

そう、今日聞いた。先輩の中村方隆さんが亡くなった。35年前、僕と入れ違いに黒テントを離れた人なんだけど、旅先で良く芝居の話をしてくれた、希有なほど穏和な優しい役者だった。彼の伝説は沢山残っている。しかし善人は早いな67歳だった。
ああ又背中がずしりと重くなる。沢山背負ってしまったぞ。まだまだ脳天気で芝居をしていたいのに……重くなる。ああ無情 南無三。

2008年7月12日土曜日

芝居の感想

もう一つ、最近観た芝居の事を書き残そう。

7/1 シアター代官山へ「母の桜が散った夜」を観に行った。
ウンプテンプ・カンパニーの蜂谷が客演していたから、何となく心配で観に行った。心配は的中。

芝居と言うよりタレントのお披露目会とスクールの発表会が合わさったようなモノだった。 唐突にダンスシーンが有ったり、歌を歌ったりと、何がしたいのか見え見えになってしまっている。

とは言っても作・演出は森本某という、若いときに唐組に居たとかいう奴。今はれっきとした映画のシナリオライターなのだ。にしては台本がひどいぜ、どうひどいかは敢えて言いたくもないが…。
まあ、演劇はホームグランドではないから手を抜いて書いたのだろうと思うと納得できる。
プロダクション関係の女の子を使っているが、実物の方が圧倒的に魅力的だ。蜂谷は、ちゃんと芝居をしようとしていたのが救いだった。

舞台はそんなに甘くないぜ。と拘っている僕はもうすでに時代錯誤なのか?いや、もしそんな時代ならこっちから願い下げだ。
芝居に不純なモノを入れたくないと思って作ってきた僕が馬鹿に思えるほど、不純の固まりのような芝居、ぬけぬけとここまで来ると商魂のたくましさが立派と思えてしまう。芝居を見終わって、暫く忘れていた業界人の厚顔な面を思い出した。
「もっとちゃんと芝居をやろうよ」と当てもなく呟きたくなった。

観劇してしまった。

観劇の感想を書こう。
空はどんよりとした梅雨空だが、気分はそんなに悪くない。
神楽坂ディープラッツに出かける。gucci&bocciの『戸惑いの午后の惨事』 を観にだ。
次回作の「三日月のセレナーデ」に参加予定の役者が出演するから、少しワクワクしていたかも知れない。

僕としては珍しく律儀に開場時間に間に合うように受付に行くと、美術家の蟹江杏が「早いね」と言った。確かに客は僕しかいなかった。取りあえず劇場に入って席にカバンを置いて、横目で美術セットをちらりと覗き、外でたばこを吹かしていた。ごちゃごちゃしてた今までのセットとは少し趣が変わりこじんまりとすっきりと飾ってあった。二間ぐらいの八百屋盆は役者が動きにくそうだと思ったが、胸の内にしまっておいた。

芝居が始まるとライトショーが暫く続き、音楽と共にセットを綺麗に浮かび上がらせている。
そんなケレンは本筋と関係ないだろうなと思っていたら、やはり上手くコミットはしていなかった。でも綺麗だったからヨシとするか?
全体的にテンポは快調で小気味は良かったのだが、緩急やメリハリの計算が下手なのか一本調子に思えた。出演者は皆演じる事が好きなのだろうが、行動の動機が無いと言っては身も蓋もないので、大げさと言う言い方が的を得ている。芝居がオーバーになる事と過剰になる事では雲泥の差なのだが、どうしてもオーバーになってしまっていた。僕のような人間はもうついて行けなくなる。
丁寧に作った感はあって良かったのだが、どうしても演劇の世界が自閉的になってしまうのは、演劇の在り方を根本から考えさせられる。
良くも悪くも若い芝居なのかも知れない。芝居を掘り起こしたり、劇構造を構築する技量が求められるが。センスが面白いだけに惜しい。
ラストの演出の思いつきも面白いのだが、詰めが甘く、思いつきに見えてしまう。言い出せばきりがなさそうだ、と、言う事はそんなにつまらなくはなかったのかもしれ無い。